弁護士の放課後 ほな行こか~(^o^)丿 http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198 ja 委員会活動というのは http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2502 <p> 弁護士会の委員会活動というのは変わっている。弁護士はみな、自分の経済的利益にならない、かなりの作業を、報酬もなく行っている。消費者被害の対策や、交通事故被害者を助ける、権力から国民を守る、子どもの人権を守る、未来の主権者を育てるなどのために、弁護士会としての声明を発表したり、立法政策に働きかけたり、弱者救済や災害相談のために弁護士会で当番などの仕組みを作ったり、講演などを行ったりしている。<br />  これらボランティア的な活動は、個々の弁護士が社会に対する使命感というものに突き動かされてきたからこそ実現できているのだと思う。もちろん、この使命感が大きな原動力となっているのであるが、とはいえ、どうやら委員会活動をする効用は他にもありそうだ。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 先日、弁護士の委員会活動について議論する機会があった。議論の場で、ある方が委員会活動を、「クラブ活動のように(熱中して)やってきた」とおっしゃった。<br />  そこで考えてみるに、様々な委員会は、大きく2つの効用があるのではないかと思われる。「伝達欲求」と「知的欲求」の充足という効用だ。委員会に参加すると、専門的な知識や最先端の情報などを収集する機会が増える。これは、「知的欲求」をみたすものだ。また、高齢者や生徒などに講演、授業を行ったりすることや、私の所属している「弁護士過疎地域派遣弁護士養成プロジェクトチーム」では法テラス(過疎地域対策や弁護士費用援助他を行っている独立行政法人)などで弁護士過疎地域に派遣される予定の新人弁護士に、OJTの機会を作って一緒に事件を受任するなどの援助をしているところだが、これも新人弁護士に対して「伝達」するわけなので、「伝達欲求」を満たすものかもしれない。もとより、どの委員会でも、先輩弁護士は新人に対してはいろいろと「伝達」するわけだから、それも「伝達欲求」を満たすものだろう。</p> <p> 人は、太古の昔から、この2つの欲求によって文明を発展させてきたのかもしれない。</p> <p>&nbsp;</p> <p>  「なあなあ、昨日テレビでやっててんけど、オリーブオイルがお通じにええらしいでぇ。」「いやぁー、そうなん?どなして食べるん?」<br />  今も、伝達と知的探求は、そこかしこで行われている。</p> http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2502#comments 大阪弁護士会、弁護士のこと Thu, 28 Feb 2019 02:03:30 +0000 041541 2502 at http://www.osakaben.or.jp/blog 人間性というのは http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2487 <p> 先日、アンドロイドで有名な石黒先生の講演を聞いた。<br />  今や自由に動かせる義足や義手が開発されているが、これはそのうち、臓器や体中のどんなパーツでもあり得ることになるだろう。しまいに、脳まで機械で置き換えられたら、その人は、果たして人間なのだろうか。機械と人間との境目というのはあるのか。そう考えてくると、機械というのは、人間のこれまでの遺伝子的な進化というものの延長なのじゃないか。人間性というのはなんなのか。<br />  まあ、僕の理解できたところでは、そんな問題提起がなされていた。<br />  <br />  さて、そこで思い浮かんだのが、(ターミネーターではなく)マトリックスだ。人間のすべての行動は、プログラムできるものなのか。あの映画では、「すべての行動は、何かの条件を与えられた結果生じる反応である。」と言っていたし、確かにそう言われるとそのようにも思える。僕は今、気温が27度くらいの電車の中にいて、さっき水を飲んでから1時間経つ。つまり、のどが渇いている。そして鞄にはお茶が入っている。座席に座っていて、すぐに取り出すことができる。そうすると、僕はお茶を飲むことになるだろう。<br />  となると、結局は脳だって、機械に置き換えるどころか、ゼロから機械でプログラミングして製造できてしまうのではないのか。プログラムは究極的には、条件に対する答えを記述したものだ。つまり、脳が判断するすべての条件を書き上げられるなら、プログラミングは可能ということになる。</p> <p> ところが、カントはそうは考えなかった。石黒先生は、ドイツはカントなどの哲学が染み着いていて、なかなかアンドロイドに対する革新的な考えを受け入れない、と冗談を言っておられたが、それは正しいのかもしれない。カントは、仮言命法、つまり、何か条件を満たすための行動(お金をもらえるから働く、など)は、本当の自由な意志による行動ではない、と考えた。単に、「お金を与える」という条件に対する反応だ、というのだ。「お腹が空いたから食べる」「ほめられるから勉強する」「楽しいから本を読む」だけでなく、ボランティアをしたり席を譲るのですら、それによって「充実感」が得られるのであればそれは「自己満足」のためであって、条件に対する反応だというのである。<br />  そして、コンピュータ・プログラムは、いわば仮言命法の塊ということになろう。<br />  一方で、このような条件のない、いわば、「単に(すべきことだから)する」という行動は、定言命法という。カントは、人間が本当に自由な意志で行動するというのは、この定言命法に従うときである、と考えた。そして、これこそが道徳律である、というのだ。つまりは、カントはこれこそが、人間が人間たるゆえんだと考えていたといえよう。</p> <p> カントは、「様々な現象には、その原因があり、またその原因にも、そのまた原因がある、という原因の無限の連鎖の先に何があるのか」について、人間には結局、「究極の原因=因果の始まり」があるのかないのか、「分からない」、という結論を、延々と複雑に説明している。そして、分からないのだから、それを追究するというのに終始するのではなく、自らが因果の始まりとなりうるような自発的な行動、つまりは定言命法を「実践」すべきだ、というのだ。<br />  人間は因果の始まりになることができる、ということを「実践する」ことで証明しようとしていたのかもしれない。</p> <p> アンドロイドに、これができるのか。</p> <p> 人間性というのは、このことなのではないか。<br />  条件を与えられたからする、のではなく、すべきことだからする。<br />  このような道徳律の実践ができること、それこそが人間性なのではないか。<br />  天上に輝く星は命を与え、心の内なる道徳律は「人間性」を与える。これこそが感嘆すべきことなのだ。<br />  </p> http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2487#comments あれこれ Tue, 30 Oct 2018 02:24:20 +0000 041541 2487 at http://www.osakaben.or.jp/blog 「知って」ほしいこと http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2453 <p> 聞いたことがあるが中身を知らない、ということは多々ある。<br /> あるいは、頭で理解はしているが心で実感はしていない、ということも多々ある。<br />  僕はつい最近、四十数年生きてきて初めて、蛍が光るのを見たし、ツクシが苦いのを味わった。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 知ることは大事だ。そもそも知らなければ始まらない。<br />  しかし、それだけではなく、心で実感することこそが、その物を本当に「知る」ということなのだと思う。<br />  蛍が光ることや、ツクシが食べられることは、調べれば分かる。しかし、その光が作る幻想的な空間は、その苦さが教える春の味は、実際に見て、食べた人だけにしか分からない。<br />  蛍が光るということは、ツクシが食べられるということは、それはこういうことだったんだ。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 今学期から、ある大学に憲法の講義をしに行っている。学生は、看護士や教師、医療技師を目指している人なので、法律に興味はないのだろう。そんな中で、僕の拙い授業につきあってくれている。<br />  おそらく全員が、憲法というものを聞いたことはあったと思う。しかしまた、おそらく全員が、憲法は誰に義務を課すものか、ということは、知らなかったと思う。<br />  中学の時から社会などで習っているはずなのに、三権分立というような言葉を覚えたはずなのに、憲法は権力から国民を守るためのものだという根本的なことを、知らないままだ。我々は憲法に守られているのだということを、知らないままだ。憲法は、公権力を縛るためのものだ。なのに、我々国民が義務を負い、我々国民が憲法に縛られている、とさえ思われてる。<br />  知ることは大事だ。そもそも知らなければ始まらない。少なくとも僕の授業に出てくれた学生たちは、知ってくれたはずだ。</p> <p>&nbsp;</p> <p> もうすぐ終戦記念日。戦争を知らない僕などが言うのもおこがましいが、体験はできなくても、いろんな話をテレビで見たり、経験を人から聞いたりすることはできる。そして多くの人に、実感し、「知って」ほしいと思う。<br />  我々は憲法に守られているのだ。</p> http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2453#comments あれこれ Wed, 04 Jul 2018 02:30:30 +0000 041541 2453 at http://www.osakaben.or.jp/blog 4月1日に気をつけよ http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2437 <p> 「不幸の薬は希望のみ」<br />  なにも、シェイクスピアのファンではない。スタートレックのファンなだけだ。スポックは死に瀕し、ドクターにこう言う。ドクターはこれがシェイクスピアだと分かっている。だからその後のセリフがなくても理解できる。「私は生きる希望を持っている。そして死ぬ覚悟もできている。」。</p> <p>  アメリカの映画では、シェイクスピアがよく引用される。そして、引用者と聞き手が共にその内容を理解している設定が多い。だから行間を埋めることができ、引用はその発言以上の意味を持つ。<br />  日本の映画では、引用しても聞き手はだいたい、それを知らない設定が多い。もっと言うと、引用者の方が誰も知らないような、それこそシェイクスピアや聖書を引き合いに出すことが多い。引用が主人公を格好良く見せるためだけの手段になってしまっている。</p> <p>&nbsp;</p> <p> そもそも日本人で小説や戯曲を暗記している人をあまり見かけない。出だしだけは有名な小説はいくらでもある。「親譲りの無鉄砲で小共の時から損ばかりしている。」「メロスは激怒した。」「吾輩は猫である。」しかし、その後を暗記していない。俳句や短歌はいくらか暗唱できる人を見かけるが、小説はほとんど見かけない。これはいったい、日本の小説は記憶に値するほどの美しさがないということなのだろうか。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 日本の法律は、かつて格調高く記載すべきとの風潮があったように思う。そしてこの格調高い文章を読みこなすのが、法律家の仕事であった。この度の民法改正(平成32年4月1日施行予定)では、国民に分かりやすい法律を、ということをモットーにしたようだが、それでも様々な葛藤があった。どう書き表わすかが議論となった際、「散文的表現と俳句的表現」という言葉が出たそうだ。つまり、できるだけかみ砕いて分かりやすく表現するのか、字数を最小限にして格調高い、美しい表現にするか、ということの趣旨だ。どうやら、格調高い、美しい表現というのと、分かりやすい表現というのは、背反の関係にあると思われている気がする。</p> <p>&nbsp;</p> <p> しかし果たして、格調高さや美しさと分かりやすさは背反するのだろうか。梶井基次郎のように普段見知らぬ単語を使って一見しては意味が通じないような不思議な例え方をして、この文章に付いて来られる読者だけが理解できたという優越感を持てる、そういうスタイルの小説もある。これは難しい、ある種格調高い文章であって、確かに分かりにくい。だが一方で、芥川龍之介のように、誰にでもすぐに腑に落ちる平易な表現をして、それでいて人生を銀のピンセットでもてあそんでいるかのような達観した印象を与える文章もある。分かりやすくしたからといって、必ずしも、格調高さ、美しさが犠牲になるわけではない。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 法律は小説に増して、分かりやすさが重要である。1人でも多くの人が内容を理解できるように書かなければ、様々な規律を明文に示した意味がなくなる。文章について来られる人に優越感を与える必要はない。しかしそれでも、暗唱したくなるくらい美しい文章ではあってほしい。憲法前文は、1文が長くて読みにくい。しかし、分かりにくい、というほどではない。それでいて、先人が血を流し獲得してきた自由や平等、平和といった価値が思い起こされ、勇気を与えてくれる。戦争の放棄を規定した9条は、その後に寄ってたかってなされる解釈とは裏腹に、全くいさぎが良い書きっぷりである。憲法は特別なのかもしれないが、美しい文章は守り続けたい。</p> <p>&nbsp;</p> <p> なにもシェイクスピアのファンではない。しかし、思う。同じ香りがするとしても、やはり美しい名前で呼びたいものだ。</p> http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2437#comments あれこれ Thu, 05 Apr 2018 04:30:07 +0000 041541 2437 at http://www.osakaben.or.jp/blog 再犯 http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2417 <p> 薬物犯罪や病的盗癖でなくても、犯罪を繰り返す人はいる。<br /> 裁判の時には、「もう二度と犯罪はしません。」と約束する。「裁判だから、わざと感じいい風に言った」と言われればそれまでだが、その言葉は、その時の気持ちとしては偽りではないのだろう。裁判のときは、真摯に反省しているはずである。しかし果たして、その言葉を信じることができるだろうか。時とともに、反省の気持ちは麻痺し、薄らいでいくのもまた、事実である。彼の信念が試される。</p> <p>&nbsp;</p> <p>昔々、銀河系のはるか彼方で・・・<br /> 銀河共和国は軍隊を持たず、徳を積んだ少数のジェダイが平和を維持していた。しかし、元老院議員のパルパティーンは裏で敵軍を支援して戦争の危機感を煽り、人民を誘導して最高議長に就任する。彼は軍備を増強し、反乱の嫌疑をかけてジェダイを抹殺、帝国の皇帝として君臨した。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 人類はこれまで、何度も同じ過ちを繰り返してきた。一人の「英雄」と思えた人物に権力を与えてしまい、その独裁者は思想・言論を統制し、戦争をし、そしてその後に人々は過ちに気づき、反省する。<br /> 勝れて民主的だと言われたワイマール憲法によって選出され、これを「全権委任法」によって踏みにじったヒトラーも、人民の政府を勝ち取ったはずのソビエトで、「テロ組織とテロ行為」なる法律を作り粛清をしたスターリンも、人民が権力を与えたのだ。</p> <p>&nbsp;</p> <p> 日本は敗戦し、「もう二度と戦争はしません。」と約束した。「GHQに言わされた」と言われればそれまでだが、その言葉は、その時の気持ちとしては偽りではなかったのだろう。戦後のときは、真摯に反省していたはずである。しかし果たして、その言葉を信じることができるだろうか。時とともに、反省の気持ちは麻痺し、薄らいでいくのもまた、事実である。我々の信念が試されている。</p> <p>&nbsp;</p> http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/198/entry/2417#comments あれこれ Wed, 13 Dec 2017 01:33:37 +0000 041541 2417 at http://www.osakaben.or.jp/blog