フレディのこと
11月になりました。
あと1ヶ月半で新年です。年を取ると1年が早いです。
今年は、ジョン・レノンの生誕70年、没後30年にあたるので、今月下旬から来月上旬には記念行事が目白押しだと思います。
ジョン・レノンが亡くなったとき、私は中学1年で、洋楽というものに興味を持ち始めたころで、洋楽の入門編ともいえるビートルズでも、有名な曲を数曲聴いたことがあるくらいでした。
ですので、ニュースを聞いてびっくりはしましたが、リアルタイムでの衝撃はそれほどでもありませんでした。
リアルタイムでの衝撃の大きさでは、フレディ・マーキュリーが亡くなった時の方が大きかったです。当時私は大学4年でした。
高校で軽音楽部の友人と遊ぶことが多くなってから、どんどんと洋楽にのめり込み、「ベストヒットUSA」や「SONY MUSIC TV」といった深夜番組をかじりつくように見て、気に入ったプロモーションビデオを録画し、何度も繰り返し見てました。
当時、特にはまっていたのが、ザ・ポリス、ユーリズミックス、レッド・ツェッペリン、T・レックス、そしてクイーンでした。
知らない方もおられると思いますが、フレディ・マーキュリーはこのクイーンというバンドのボーカルです。
ひとことで説明すれば「変態」です。
今でもYoutubeでクイーンのビデオクリップを見ることはできますが、ヒゲのおっさん面でとにかくよく脱ぎます。黒白ツートンのピチピチ全身レオタードを前後逆に着て歌う「We Are the Chanpions」やメンバー全員が女装している「I Want to Break Free」などは変態の極みです。
しかし、圧倒的な歌唱力、存在感は、カリスマというにふさわしいものでした。
語り出したら切りがありません。
そのフレディ・マーキュリーが亡くなったのが、19年前の11月24日です。そのとき私は大学のサークルの4年生達で高山に旅行に行っており、旅館のテレビのニュースで知りました。
以前から噂があったAIDSへの罹患を公表し、「ああ、やっぱり」と思った翌日に、死亡してしまいました。
自分のお気に入りのバンドが消滅してしまうことの衝撃や喪失感は今でも忘れられません。
当時、AIDSは治療法も見つかっておらず、死に至る病であり、ゲイに患者が多かったことから、AIDS患者=ゲイと見なされる風潮がありました。フレディ・マーキュリーの死でその偏見が助長されたのは、ある意味、彼の影響力の大きさを物語るものなんでしょう。
11月になれば、彼の死を思い出し、それとともに楽しかった大学時代の終焉と本格的な司法試験受験時代の始まりの転換期であったあのころを思い出します。
来年は没後20年で色々なイベントがあるでしょうが、私は静かに思い出に浸りたいと思っています。