長崎控訴院について
前回このブログを担当したとき、映画「この世界の片隅に」について、簡単な感想(http://www.osakaben.or.jp/blog/posts/138/entry/2324)を書かせていたただきました。かかる投稿は、更新直後に多数のアクセス数をいただいたに留まらず、先週頃には、本ブログ内記事中アクセスランキングが再び1位になりました。
「この世界の片隅に」は、現在、TBS系列で連続ドラマが放映され、昨年の映画にシーン追加した新装版「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の上映も、発表されています。
ランキングが返り咲いたのも、一連の動きが反映されたものと思われます。
いちファンとしては、息の長いコンテンツとなったことは、嬉しい限りですが、その余波で、拙稿までアクセスが増加するというのは、逆にやや恥ずかしい思いです。
そんな中、弁護士会より、偶然か今年は8月9日を当ブログの執筆日に割り当てられました。
長崎について(広島についても)、本来、私は人に話すほど詳しくはないのですが、以前少し興味深い発見をしたので、ここに紹介させていただきます。
我が国では、いまでも少なくない戦前の法令が有効であり、さらには、改正があったとしても、条文を戦前の法令(カタカナ書き)を現代文(ひらがな書き)に直しただけであったりする例も結構あります。そのため、行う法令調査や法学研究において、戦前の裁判例の参照や引用が行われることがままあります。
ある調査の際、長崎控訴院の裁判例が出てきたことがありました。控訴院とは、文字通り控訴審を担当する裁判所であり、概ね現在の高等裁判所に相当します。しかし、現在、九州にある高等裁判所は福岡高等裁判所です。「控訴院は福岡ではなく長崎だったのか、戦後福岡に移ったのかな」と思って調べたところ、移転したことは予想どおりでした。ただ、長崎控訴院庁舎は、原爆によって跡形もなく消失しており(「長崎原爆資料館 収蔵品検索」 http://city-nagasaki-a-bomb-museum-db.jp/collection/86096.html)、その移転は戦後ではなく、1945年8月15日に、福岡控訴院が設置されることにより、なされていました(<福岡市議会史第 2 巻「大正編」第 21 章余録 4 長崎控訴院移転問題から> http://gikai.city.fukuoka.lg.jp/wp-content/uploads/2018/03/gikaishi2.pdf)。
いうまでもありませんが、8月15日は終戦の日です。
8月15日の移転が前もって計画されていたのか、否かについては、上記資料は触れられておりませんが、長崎控訴院は、租界の領事裁判の上訴審を管轄するなど、当時の政府の植民地支配における司法インフラであったこと(福島小夜子著「領事裁判と明治初年の日本」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jorient1962/23/2/23_2_99/_pdf 等参照)を考えると、戦前の終焉を表すエピソードであると想ったことを記憶しています。
(ただし、上記長崎原爆資料館の写真の説明文では、移転日が「昭和20.8.1」とされており、資料間に食い違いがあるようです。もしかしたら長崎弁護士会や福岡高裁等には移転の経緯について詳細な資料があるのかもしれませんが、恐縮ながら、そこまで調査はしておりません。)
昨年は核兵器禁止条約が国連で採択されるなど、核兵器について違法化を図る流れはあるものの、未だ核廃絶の現実化は遠い情勢です。
長崎の原爆が人類にとって最後の核兵器となることを願いつつ、
先の大戦の犠牲者の冥福を祈念いたします。
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