コトバの意味って変わっていくもの
世の中には、いろんなコトバがあります。当たり前ですね、失礼いたしました(;^_^A)。
賛否両論でしょうが、私は、コトバの意味が変わっていくことが悪いとは思っていません。
これもまた当たり前ですが、同じコトバでも、平安時代の意味と、現代の意味は全く違ったりします。例えば、「かわいい」は、平安時代では、「かわいそうだ」という意味でも使われていたようです。
社会の在り方はどんどん変わっていくものですから、それに合わせて人がそのコトバに抱く意味合いが変わっていくのは、当たり前のことだ、と私は考えています。
しかし、残念な変わり方もあります。
「情けは人の為ならず」
1 情けをかけることは、結局のところその人のためにならない・・・甘やかすだけ、という理解でしょうか・・・
2 人に情けをかければ、巡り巡って自分にとって良いことが起こる・・・助け合いの精神みたいなものでしょうか・・・
2の意味が本来の意味ですが、最近は、1の意味で使う人と、2の意味で使う人の割合は、五分五分だそうです。
世知辛いなあ、と思うのは私だけでしょうか・・・
「性善説で作られた法律だから・・・」
これは、マスコミのみならず、「有識者」と言われる人もほぼ本来の意味とは違う使い方をしています。もはや意味が完全に変わってしまったのかもしれません。
「性善説」人は信じるべきだ
「性悪説」人は疑ってかかるべきだ
これは、本来の意味からかけ離れています。
「性善説」人のこころは、生まれながら「善」なんだけど、成長して悪いものに触れていくうちに、悪行を行うようになる。だから悪いものをなくしていくために、教育が必要なんだ。
「性悪説」人のこころは、生まれながら「悪」で、放っておくと悪行を行うから、そんなことがないように教育が必要なんだ。
簡単に言えば(専門家ではないので、簡単にしか言えないのです(;^_^A)こんな感じです。
これがなぜ残念なのかというと、「日本の法律は性善説で作られているから(もっと厳しくペナルティーを課そう)」と、単純な理解にしかならないからです。
でも、ほんとうは、人は「いいこと」も「悪いこと」もします。
法律で取り締まれない「悪事」があるなら、それは作った人が「ミス」ったか、わざと「抜け穴」を作ったか、のどちらかというのが、ほんとうのところだと思っています。
そこまで踏み込まずに、簡単に人のこころのせいにするのは、思考停止なんじゃないかな、と思っています。
「エライヒト」が使っているのを聞くと、残念でなりません。
他方で、これも賛否両論なのでしょうが、私が勝手に「いいんじゃないの」と思っている変化もあります。
「ら抜きことば」です。
「見れる」と言いませんか?
ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「見ることができる」という意味で使うためには、 「見られる」が正しい、とされているのです。
でも、他人から監視されている、という意味で、「見れる」を使う人はいません。必ず「見られる」「見られてる」と言いますよね。
実は、これ、「可能」の意味の場合だけ使われているのです。
「れる」「られる」という言葉は、本来、「受動(他人から~させられている)」、「(目上の人に)この資料はもう見られましたか?」などでも使われます。
では、この「誤用」はなんなのでしょうか?
私は、コトバの意味が伝わりやすくなる一種の「工夫」だと思っています。
使い始めた人たちは、無意識にかもしれませんが、相手にコトバの意味が伝わりやすくしたのかもしれませんね♪
こういったことを考えるのも結構楽しかったりします。
人のココロの奥底を「見れる」弁護士でありたいと思っております。
ら抜き言葉も慣れてきました
言葉の「誤用」の例として紹介されているものも,そのうちそれが通常の意味かのように定着する例については,枚挙にいとまがないですよね。そういう言葉の意味の移り変わりも「いとをかし」と寛容でいたいものです。
新しいコメントの投稿