4月1日に気をつけよ
「不幸の薬は希望のみ」
なにも、シェイクスピアのファンではない。スタートレックのファンなだけだ。スポックは死に瀕し、ドクターにこう言う。ドクターはこれがシェイクスピアだと分かっている。だからその後のセリフがなくても理解できる。「私は生きる希望を持っている。そして死ぬ覚悟もできている。」。
アメリカの映画では、シェイクスピアがよく引用される。そして、引用者と聞き手が共にその内容を理解している設定が多い。だから行間を埋めることができ、引用はその発言以上の意味を持つ。
日本の映画では、引用しても聞き手はだいたい、それを知らない設定が多い。もっと言うと、引用者の方が誰も知らないような、それこそシェイクスピアや聖書を引き合いに出すことが多い。引用が主人公を格好良く見せるためだけの手段になってしまっている。
そもそも日本人で小説や戯曲を暗記している人をあまり見かけない。出だしだけは有名な小説はいくらでもある。「親譲りの無鉄砲で小共の時から損ばかりしている。」「メロスは激怒した。」「吾輩は猫である。」しかし、その後を暗記していない。俳句や短歌はいくらか暗唱できる人を見かけるが、小説はほとんど見かけない。これはいったい、日本の小説は記憶に値するほどの美しさがないということなのだろうか。
日本の法律は、かつて格調高く記載すべきとの風潮があったように思う。そしてこの格調高い文章を読みこなすのが、法律家の仕事であった。この度の民法改正(平成32年4月1日施行予定)では、国民に分かりやすい法律を、ということをモットーにしたようだが、それでも様々な葛藤があった。どう書き表わすかが議論となった際、「散文的表現と俳句的表現」という言葉が出たそうだ。つまり、できるだけかみ砕いて分かりやすく表現するのか、字数を最小限にして格調高い、美しい表現にするか、ということの趣旨だ。どうやら、格調高い、美しい表現というのと、分かりやすい表現というのは、背反の関係にあると思われている気がする。
しかし果たして、格調高さや美しさと分かりやすさは背反するのだろうか。梶井基次郎のように普段見知らぬ単語を使って一見しては意味が通じないような不思議な例え方をして、この文章に付いて来られる読者だけが理解できたという優越感を持てる、そういうスタイルの小説もある。これは難しい、ある種格調高い文章であって、確かに分かりにくい。だが一方で、芥川龍之介のように、誰にでもすぐに腑に落ちる平易な表現をして、それでいて人生を銀のピンセットでもてあそんでいるかのような達観した印象を与える文章もある。分かりやすくしたからといって、必ずしも、格調高さ、美しさが犠牲になるわけではない。
法律は小説に増して、分かりやすさが重要である。1人でも多くの人が内容を理解できるように書かなければ、様々な規律を明文に示した意味がなくなる。文章について来られる人に優越感を与える必要はない。しかしそれでも、暗唱したくなるくらい美しい文章ではあってほしい。憲法前文は、1文が長くて読みにくい。しかし、分かりにくい、というほどではない。それでいて、先人が血を流し獲得してきた自由や平等、平和といった価値が思い起こされ、勇気を与えてくれる。戦争の放棄を規定した9条は、その後に寄ってたかってなされる解釈とは裏腹に、全くいさぎが良い書きっぷりである。憲法は特別なのかもしれないが、美しい文章は守り続けたい。
なにもシェイクスピアのファンではない。しかし、思う。同じ香りがするとしても、やはり美しい名前で呼びたいものだ。
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