太地町の「弁護人」
向井です。
2度目の投稿です。
米アカデミー賞のドキュメンタリー賞を受賞した「ザ・コーヴ」。
日本のイルカ漁を隠し撮りし,それを「告発」する映画だそうです。
舞台は和歌山県太地町。
実は,私,その太地町の生まれです。
育ったのは「すさみ町」というもっと田舎の町ですが。
だから,このイルカ映画の話題を聞くと,物申したくなってしまいます。
太地町もすさみ町も,太平洋に面した漁師町です。
ほかにこれといった産業がなく,特に太地町は,鯨漁で地元の人が暮らしを維持してきた町だといえると思います。
さてこの映画。報道によりますと,イルカを棒で突いて海面が真っ赤に染まる場面を撮影した映画であり,要するに,イルカの「虐殺」を告発するような内容だとか。
太地町生まれの私は,いわば理屈を扱う弁護士という職業にありながら,反射的に,この映画に反発したくなります(ですから以下の文章はあまり論理的ではありません(笑))。
太地町では,くじら漁やイルカ漁は,地域に古くから伝わるごく自然な漁であり,それらを食するのはごく当たり前の食文化です(だと思います)。
みな,海を守り,自然の恵みを得て,自然に感謝するという生活をしてきました。
この基本は今も変わっていないと思います。
もちろん,いくら伝統であっても,それが人道に反したり,動物虐待とみなされるようないたずらな行為であれば,厳に戒められるべきことはいうまでもありません。
また,絶滅の危機に瀕している種の保存のために,捕獲行為が禁じられることも,当然だと思います。
でも,太地町のイルカ漁は,虐殺などと非難されるような,いたずらに残虐な行為なのでしょうか。
そんなはずがありません。
人々が代々伝わる貴重な食材を確保し,暮らしを立てていくために行われている漁法の一つだと思います。
私は,この映画によって,太地町の人々の食文化,いや暮らしそのものを否定されたようで,とても悔しいのです。
たいへん程度が低い反論になりますが,牛や豚や羊なら,食用に殺しても虐殺ではないのに,イルカだとダメだというのは,私には理解しかねる話です。
太地町もそうでしょうが,和歌山の沿岸の漁師町には,魚の慰霊碑がたくさんあります。
中学生くらいになりますと,慰霊碑の意味も分かってきます。
私は,魚の慰霊碑を見て,子ども心に「魚さんを採ったから魚さんの霊を慰める」などというのは,チャンチャラおかしいことだと思っておりました。
でも,「殺生するというのは,たとえ人間が生きていくためであっても,その生き物に対して申し訳のないことであり,やはりその霊を慰める,その上で新たな漁をさせてもらう」という謙虚な気持で漁をする。
私も,大人になって,魚の慰霊碑の見方が変わりました。
イルカは魚ではありませんが,海の恵みに感謝しながら漁を行うという点では魚と同じはず。
太地町にも,慰霊碑があると聞きます。
それが,一方的に,「漁協は害獣駆除のためにイルカ漁を行う」などと報じられる。
少し,いや,かなり,おかしいと思うのです。
例えば「羊」を殺すシーンを撮った映像を見たら,「ラムステーキ」は食べづらくなるはずです。「馬」だってそうではないでしょうか。殺害シーンを見たら「馬刺」はもう食べられません。
羊でも,馬でも,雉でも,鴨でも,それらを殺すシーンをまともに撮ったら,それはもう見るに耐えない扇情的な映像になるのが,当然ではないでしょうか。
アカデミー賞作品対太地町(又は太地の漁協?)。
世界的を動かす米メディアや日本のメディアは,この作品を大々的に報じてきました。
小さい小さい太地町(又は漁協)に勝ち目は・・・。
メディアに出れば出るほど世間の注目を集めてしまうがゆえに,メディアを通じて反論することができない地元の漁師さんたち。
彼らの震えるような憤りと悲しみを感じるのです。
因みに,私は,高校卒業まで,寝床にいても波の音が聞こえる,とても自然豊かな地域で,自然と共に暮らしてきました。(家の裏が山。家の前が海でした。ちなみに川は家から数十メールで行けます。)
理屈ではなく,自然がどういうものなのか(自然がどのように変化するものなのか,どれだけ怖いものなのか)を,肌で感じることについては,みなさんに負けないと自負している,「自然保護派」の人間です。
だけれども,今回のイルカ映画には,どーにも,アレルギー反応が出てしまいます。
もちろん,私の個人的な意見には山ほど,「論理的」な反論があると思います。
私の記述に事実誤認があるかもしれません。
ただ,和歌山の太地町で生まれた私は,今回の映画について太地町を「弁護」したくなるのです。
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