正当性の否定
前回に続いて「正当性」について論じたいと思います。
今回の安保法案成立に至る過程で感じることは、国家権力の「正当性の欠如」です。
日本の安全保障のためには集団的自衛権及び集団的自衛権を担保する法整備が「必要」だとする論議と、憲法違反の疑いが強い法案を通すことは立憲主義の根幹を揺るがすことになりかねないのでそのような法案成立は「許容」できないとする論議の対立でした。
必要性論議と許容性論議は次元が異なるものなので、その論議の対立は平行線をたどるしかなく、それぞれを分けて論じることが必要です。
ただ、こうした、必要性論議と許容性論議を「あえて」平行線で論じることは政治の世界ではありがちなことなので(法律家としてはあってはいけませんが)、そのこと自体に特に驚きはしませんでした。
しかしながら、必要性論議の中で、「憲法の前に国家がある」論が、事実上、公然と語られていたことには驚きを感じました。
国家権力に「正当性」を与えられているのは、あくまで、国家権力に対する国民の負託があるからであって、その負託に関するシステムを担保しているのは憲法であり、立憲主義です。
それにも拘わらず、自らの権力基盤のよりどころであるシステム自体をも正面から否定すること自体に何らの躊躇も覚えない国家権力の担い手が存在していること、このことには驚きを感じました。
何事も「正当性」が重要なことだと私は感じております。「正当性」がないところには、ただ、「無秩序」しか存在しません。
しかし、今、国家権力の担い手の中には、自らのよって立つ権力基盤の「正当性」すら否定するような機運があること、このことは、決して、見過ごしてはいけないように感じます。
次回はそろそろメディア話をしようと思っております(笑)。
法の支配
「憲法の前に国家がある」論は,自ら国家を否定する議論ですね。
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