弁護士徒弟関係
習い事や学校の恩師はもちろん、日々の些細なことも含め、人生には、その都度、自分を導いて下さる師匠がいますよね。
特に、武道や、日本文化、芸術などの分野には、師匠が存在し、弟子は、師匠から指導を受け、いずれ、自身も弟子を持ち、その教えを継承する。
弁護士にも、これに似た徒弟関係があります。
弁護士になると、既存の事務所に勤務し、事務所の経営者を師匠と仰ぎ、指導を受けながら、一人前の弁護士を目指します。
そこで、一人前になると、自分で、事務所を構えます。のれん分けや、許状のようなニュアンスでしょうか。
やがて、弁護士を雇い、弟子であった者が、師となります。
師匠にも師匠がおり、相撲会の一門ように、同門としての輪が広がって行きます。
書籍と六法で独学できる法律分野でさえ、こうした徒弟関係があり、書籍からは学べない多くを、この徒弟関係から学んで来ました。
これについて、内田樹さんが、上手く書かれていました。
以下、(内田樹『下流志向』より)
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「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
人の師たることのできる唯一の条件はその人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。
~中略~
弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。
弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得るわけです。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし、小さな環もある。 二つ並んでいる環の後ろの方の環が大きいからといって、鎖そのものの連続性には少しも支障がない。
でも、弟子が「私は師匠を超えた」と言って、この鎖から脱落して、一つの環であることを止めたら、そこで何かが終わってしまう。
~中略~
年を取っていようが、体力が衰えようが、つねに自分とは違うもの、自分を超えるものに向けて開かれている。
~中略~
「俺は師よりも強い」という自信を得たときに(自分の中のどこかに外部へと続く) ドア を閉じてしまう。
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私の師匠、師匠の師匠、お会いするたびに、私が私自身を超えるものに向けて開かれた存在でいて下さることに、改めて、師匠の素晴らしさ、有り難さ、大切さが身にしみます。
徒弟関係
一人の弁護士が縦に横に無限に繋がる鎖のひとつになっているかと思うと身が引き締まる思いです。
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