人間は感情の塊であり、喜怒哀楽にこそ人間の神髄が現れていると思います。それゆえ、芸術というものの多くは人間の喜怒哀楽や感情をテーマにしているのだと思います。

 

が、感情で全てを解決することは無用な「正義」観の対立を生み、秩序をとることができなくなることもあります。

 

それゆえ、感情や喜怒哀楽と少し離れたところに法律や法律を支える論理が必要とされているのだと思います。

 

そして、この法律や法律を支える論理によって、国や社会がある程度秩序立てられていることは誰も否定しないと思われます。

 

が、どうも、現在、この国の「偉い人たち」は、そのようには考えていないように思われます。「△△というものは〇〇という法律に違反している」との主張に対し、「〇〇という法律を守って国が守れるのか!」と声高々に反論するという現象があるように思われます。ここには、法律や法律を支える論理の社会的正当性を認識している気配はなく、ただ、感情を剥き出しにしているようにしか思われません。〇〇という法律が問題であるのであれば、〇〇という法律の改正・廃止を論じるのが本来の「偉い人たち」がすべきことだと私には思われます。

 

確かに、法律や法律を支える論理だけが全てではなく、それ自体も一つのフィクションかもしれません。しかし、法律や法律を支える論理がテーマになっているときに、感情や喜怒哀楽を声高々に主張すること、しかも「偉い人たち」がそのような行動に出ている姿を見ていると、どうも、法律や法律を支える論理に対する社会的正当性が社会全体で低く見られているのではないかと感じられます。

 

法律や法律を支える論理は全てではありませんが、その社会的正当性を支えることは重要であり、今、繰り広げられている現象がその社会的正当性を損なうものであるのであれば、法律や法律を支える論理を重んじる私たち弁護士は、自らの存在価値を否定されかねないものとして、この現状を直視する必要があるのではないかと感じる今日この頃です。

法の支配

なるほど。偉い人たち」が感情的になって声高々に法を改正してしまったら,それも一つの法の支配でしょうか。

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