変わるということ
GWということで、金沢に旅行に行ってきました。
金沢という街は初めて行きましたが、狭い範囲に多くのお店、施設がそろっており、住みやすい街なんだろう、という感じがしました。
僕が約一年間住んでいた、福岡に似てる気がします。
金沢で観にいくべきところといえば、「何といっても兼六園でしょう!」、ということで兼六園に行ってきました。
いや~、よかったです。何とも言えず、よかったです。
自分の文章力のなさに嫌になりますが、良かったとしかいいようがありません。
どの場所も、どの角度からとっても、全て「画」になるという感じでした。
しかし、そこで、ふと思ったのです。
自分はいつから、「庭」を観て、「美しい」、「綺麗」、「ここに来て良かったぁ!」などと思うようになったのか・・・
子供の頃に旅行に行ったとき、兼六園のような、観て楽しむ場所を訪れた際には、全く何も思わず、「早く帰りたい」と思う自分がいたのは確かなのです。
それなのに、今は全く違う感じ方をしています。
その理由は何なのか?
パッと思いついた理由は、興味の対象が変わってきたということ。
子供の頃はドラゴンボールなどのアニメや、ゲームのみに興味があったのに、今はそれら以外に興味が移ったから、ということです。
しかし、なぜ興味の対象が変わってきたからということで、風景を綺麗と思うのか?それだけでは、答えになっていない気がします。
また、ある人が言いました。
「それは、成長をするにつれて、いろいろなことを知るようになったからだ。私などは、今と昔で、たとえば大河ドラマを観たときの感じ方が全く異なっている。」
それも一理ある気がします。
知識を得ることによって、物の見方、感じ方が変わるのは、その通りだと思います。
しかし、物事知ることによっても、今回のような、兼六園を「綺麗」と思うのか、と聞かれたら、それも少し「?」な気がします。
結局、私が最終的に出した結論は、「ある人」が言った意見に近いですが、
「そう(綺麗だと)いわれていることを知っているから」ということです。
つまり、社会において、「綺麗」といわれているから、それを「綺麗と感じるべき」という深層心理が働いているのではないかということです。
成長をするにつれて、社会における評価というものを数多く知るようになったために、それに自分を合わせているのではないのか。
自分はちゃんと常識を知っているんだと思いたいために、社会と同じ評価をするように自分を偽っているのではないか?ということです。
このように考えつつも、「自分は心の底から、自然な感情として、兼六園を「綺麗」だと思っているんだぁ~~」と思いたい自分もいます。
ただ、そうであるのならば、やはり子供の頃からそう感じてしかるべきでしょう・・・
ただ、ここで、自分の結論に反すべき事実が一つ。
世の中で評価されている美術品を見ても、ほとんど私はなにも感動しないということです。これはこれでまずいですが・・・
しかし、先ほどの理論が正しいのであれば、ここでも私は「素晴らしい!」と感じなければならないはず
。結局人間の感情なんて、説明できないですね。
何にせよ、金沢は楽しかったです!魚もおいしいし、行ったことのない方は、是非一度行ってみてください!
以上、第1回目の投稿でした。