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作家

岸田ひろ実さん
岸田奈美さん 親子

KISHIDA, Hiromi
and KISHIDA, Nami

ダウン症で知的障害のあるご長男の出産、配偶者の急逝、ご自身の大動脈解離、その後遺症で車椅子生活となるも、手動運転装置を使って車を運転し、株式会社ミライロでのバリアフリーの調査やユニバーサルマナー(障害者・高齢者への接遇研修)の講師、感染性心内膜炎による手術を経て、独立し、コーチング・カウンセリング、障がい者雇用のコンサルティング等を行う岸田ひろ実さん、その娘さんで著書「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」(小学館)が2023年春にNHKでドラマ化された作家の奈美さんにお話を伺いました。

ダウン症の確率が9割以上と言われて

ひろ実さんが結婚された頃から、お教えいただけますか?

ひろ実夫とは会社の同期で社内恋愛でした。女性の多くは寿退社した頃で、私も入社1年半で結婚して専業主婦になりました。1年後に奈美が生まれ、初孫でとてもかわいがられました。

良太が4つ下で生まれました。出産後、ダウン症の確率が9割以上あると言われました。ダウン症のお子さんは程度がそれぞれ違って、カナダにはダウン症のコメディアンもいるし、自分で生活している人もいるけれども、重度の人は歩けなかったり、知的障がいのある人もいるので、分からないと言われ、言葉にならないというか、人生は終わったというぐらいの落ち込みでした。

生後2~3か月の頃が一番しんどくて、夫に「育てられへんかもしれへん。つら過ぎる。私には荷が重過ぎて、かわいいとも思えないし、愛することも今できてない。無条件に愛おしいということもないから無理かもしれん」と言いました。すると、夫が「育てんでいいから。ママが元気やったらそれでいいから。施設に預けることもできるし、俺はママが元気やったらいいねんから、無理やったらいつでもそうしたらいい」と言ってくれました。それが、この子を育てようと思った一つのきっかけになりました。

そこからは、障がいのある子どもを育てているうえでの辛さというのは特にありませんでしたが、ゴールが社会に出ることなので、社会に出たときは、ままならないことを教えようと思い、地域の保育園・小学校・中学校に入れました。

それはご夫婦で話し合ってですか。

ひろ実相談すると、夫は俯瞰して意見をくれ、Aだけじゃないから、BとCという考え方があるから、といった提案をしてくれました。夫は、性格も考え方も違い、一緒に落ち込まない性格でもあるのでとても助かりました。

良太さんのことを理解してもらうために、お母さんが、学校にもよく行き、クラスメートに声をかけたと聞きました。

ひろ実良太は、当時叩いたりひっかいたりするので、「キッシー怖い」「キッシー変やわ」「近寄らんとこう」となることもありました。「障がい者やから、かわいそうやから、気にしてあげよう」というのは、ずっと過ごす中ではきっと無理だから、困ったときに声をかけてくれる人を増やしたいなと思いました。小学校1年生は皆不安なので、私がいると「おばちゃん、おばちゃん」と集まってくるんです。これはチャンスで「キッシー、なんて言ってるか分からへん」と言われたら、私が良太の通訳となって「キッシー、こう言ってるんやわ」と伝えていると「一緒に帰ろう」と言ってくれるようになりました。

小4でホームページを開設

奈美さんはお父さんからパソコンを渡されたのですね。

奈 美小学生の頃、「友達がでけへん」と言っていたら、父から「これからはパソコンや」とMacを渡されました。「これで遊んどき。触ってるうちに分かるわ」と何の説明もなしでした。

パソコンでネット友達をつくられたのですか。

奈 美糸井さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」や、はまっていた漫画のホームページで最新情報を見たり、ファンが感想を言い合う掲示板で書き込みをするようになりました。それから、1~2年した頃に、家のパソコンがWindowsになり、光回線になったので、自分でホームページをつくりました。小学4年生ぐらいのときです。

小学生でホームページ!そういう小学生は周りにいましたか。

奈 美クラスに1人だけいました。その子はお絵描きをする人で、その子の絵に私がコメントや文章を書く交換日記みたいなものをウェブ上でやっていました。

また、私のサイトが、同じ趣味の人が検索をきっかけに集まってきて、いつも20~30人ぐらいがいる掲示板に育ちました。その人たちは当時私の友達でもありました。

オンラインの掲示板で集う仲間は掲示板で始終会う、嫌になったら掲示板から抜ける自由があるからこそ色んなことが話せリアルの友達より親しい、そんな関係ですね?

奈 美クラスの友達も作らないといけないけど、ネットの方が楽しいから、夜中も寝ずにネットでしゃべったりしていました。父の部屋にあった「島耕作」シリーズが私はめっちゃ好きだったんですけど、小学校では全然伝わらない。ネットの世界なら話ができるのがすごく楽しかったのは覚えています。

心筋梗塞

奈美さんはお父さんの影響をとても受けていますね。そのお父さんが突然亡くなられたんですね。

ひろ実晩、しんどいと言いながら仕事から帰り、横になっていた夫に、遠足から帰ってきた娘が、お土産を渡して、遠足の話をしようとしました。その時、夫に「うるさい。今聞かれへんわ、またにして」と言われ、奈美は「なんで話も聞かれへんの。パパなんか嫌いや。死んでまえ」と言いました。それが奈美の夫に対する最後の言葉になってしまいました。

夜中に具合が悪くなり、救急車を呼びました。救急車の中で、夫は「もう俺はあかんと思う」「奈美ちゃんは全部教えてるから大丈夫やし、良太も大丈夫や」と言いました。手術室では、血管がぼろぼろで、どこを触っても血管が破れる状況で何もできなかったとお医者さんに言われました。夫は私に「もうあかんわ、ごめんな」といい、人工心肺をつけ、意識が戻らないまま、亡くなりました。

過労ですか。

ひろ実コレステロールで引っかかり、お薬は飲んでいたんですけれども、阪神大震災をきっかけに勤務先から独立して建築デザインの会社を立ち上げてからは病院にも行かなくなっていました。

夫が亡くなり、夫の会社を片付けないといけない。悲しんでいる間がないぐらい忙しくて、夫は亡くなる前2年間は東京で単身赴任をしていたこともあり、しばらくは現実逃避で、夫は東京にいる感覚で過ごしました。

車椅子生活に
~ママ、死にたいなら死んでもいいよ~

それから数年後に、ひろ実さんが車椅子になられたのですね。

ひろ実子どもらが落ち着き、大きくなって手がかからなくなってきた頃に、整骨院でアルバイトを始めました。患者さんと向き合い、感謝され、外で役に立てるんやというのが楽しくて。

でも、外で働くなら家のことは絶対ちゃんとしておかないとという気持ちがあって、次の日の夕ご飯の支度まで夜中にして、洗濯物も干して、寝るのは3時前、起きるのは5時半。昼休みに1時間程、うとうとする生活でした。夫が亡くなってから3年目の私が40歳の時に倒れ、大動脈解離の後遺症で下半身麻痺となり、車椅子生活となりました。

当時、奈美さんは高校生ですね?

奈 美おばあちゃんが来てくれ、家事もしてくれましたが、大動脈解離の手術のときは、おばあちゃんは「え、どないしよう」となり、その分私は責任感というか、「良太もおるしな」みたいなのはありました。

ひろ実後から、叔母に、「あのとき奈美ちゃんは、頑張ってたんやけど、ぷつんと緊張の糸が切れた瞬間に貧血で倒れて、嗚咽して吐いて、かわいそうやってん」と聞きました。

奈美さんは、進学した高校があわなかったと伺いました。

ひろ実学校は学校で大変で、家へ帰ったらおばあちゃんから細かく言われ。奈美は、学校に行くと言って病院に来て「もう家に帰りたくない」と言ったこともありました。

リハビリの病院に半年以上入院していた頃に、奈美と良太が2人でお見舞いに来たんです。小さい公園で2人がけらけら笑いながらブランコに乗っているのを見て、私は泣いてしまって。奈美は辛いのに、けらけら笑ってくれるんや。夜ぎりぎりまで病院にいて、「じゃあまたね」と良太を連れて帰っていく後ろ姿に、もう無理、私は何をしているんやろうと思いました。あの時が一番辛かったかもしれない。

リハビリも暫くかかったのですね。

ひろ実起立性貧血といって、起きたら意識を失うのを慣らしていかないといけない。辛いし、しんどいし、やったところで歩けるわけでもないし、なんでこんなんやってるんやろうというのもありました。奈美が私を励まそうと三宮に連れて行ってくれたときも、バリアだらけで、奈美は謝ってばかりで、行けるところもなくて、コーヒー1杯飲むのがこんなに無理なのかということを思い知らされて、「死のう、死んだら私は何も考えなくて済むんや」と思いました。「奈美に言ってから死ななあかんな」と思って、ここまで出かかった言葉を言えない、次のお店で言おう、でも言えないを繰り返して、最後に入ったお店で、「死なせてほしい」と言いました。

奈美さんは、「死んでもいいよ」と言われたのですね。

ひろ実本気で死にたいということを聞いてもらえて、「分かった、死んでもいいよ」と娘に言ってもらい、全て許されたというか、頑張らんでいいんや、いつでも死ねるんやと、楽になりました。奈美は高2でした。「歩いてても歩けへんでも、ママはママのままで何も変わってないで」って。

車椅子で外にいたら周りから見られるんです。私はその視線がすごく苦しくて。娘も高校生が制服を着てお母さんの車椅子を押していて、かわいそうと思われるのも、辛いやろうなと思い、「嫌じゃない?」と聞いたら、「言われるまで思ったことなかった」と言って、私をめっちゃいろんなところに連れていくんです。ラーメン屋さんも小さくて高い椅子に私が座れないのは分かってるのに「聞いてくるわ」と言って連れていくので、愛されていることはすごく感じました。

奈美さんは、あちこち連れていきたいと思ったのですね。

奈 美元気になってほしいという思いと、半分は面倒くさかったんです。私はあまり悩みを引きずらないタイプですが、母は同じことを何度も言うので、それだったら、「楽しいことがあるで」と連れ出したほうがいいと思いました。

車の乗り降りの動画を拝見すると、ひろ実さんは車椅子から運転席に移ると、ご自身で車椅子を持ち上げられて、車に積まれていますね。

ひろ実2週間入院したら筋力が落ちて何もできなくなります。家事も料理も洗濯も自分でやる、それがリハビリです。

車の運転ができると相当違いそうですね。

ひろ実兵庫県立リハビリテーション中央病院で、自分でお風呂に入れる、自分でトイレに行ける、自分で着がえができる、そういうことが全部できたら、車の運転にこぎ着けることができるので、とにかくそれを目指してリハビリをしました。

その間に奈美さんは猛勉強して大学に進学するんですね。

ひろ実私が勤めていた整骨院の先生が、代ゼミの英語の先生をずっとしていて、英語やったらアドバイスはするでと言っていただきました。

奈 美参考書を渡され、「全部覚えろ」と言われました。居酒屋で、先生は酒を飲んでご飯を食べながら、「俺に授業をしろ。授業をしたときに人は一番覚えるから」と言う。「過去完了形は」と授業しようとすると「なんでそれがこうなんねん?」と聞いてくるんです。答えられないと「出直せ」と言われる。そんなことをやっていたら、半年ぐらいで英語がばんと伸び、行きたかった関学もE判定だったのがB判定が出るようになりました。「関学は英語が難しくて、配点が高いから、それさえできればなんとかなる。あとは平均ぐらい取れ」と言われました。

ミライロ
~ユニバーサルデザインを実現する会社へ~

大学入学後に、株式会社ミライロに出会ったのですね。

奈 美車椅子の母が生きていてよかったと思えるようなことができるかなと思って、当時、関学にしかなかった社会起業学科に入りましたが、他の学生はカンボジアでのフェアトレードやベトナム人女性支援をやりたいという。一方で私は「福祉の草の根活動」と聞いても、それで、母が行きたかったお店がバリアフリーになるかといったら、そんな気は全くしなくて。5月頃、大学を辞めようかなと言っていた頃、当時、立命館大学の3年生だった車椅子の垣内(現・ミライロ代表)が関学の授業に来て「車椅子に乗っている自分が106センチの目線から伝えられることがあると思うから、会社を立ち上げようと思うんです」と言いました。私はこの人とだったら何か面白いことができるかもしれないと思って、その日のうちに連絡を取ったんです。社長の垣内と副社長の民野から「経営学部でビジネスは勉強しているけれども、デザインはできない」と言われたので、「プレゼン資料などデザインが必要なものは私がつくるから入れてほしい」と言い、入社が決まりました。私はそのときデザインとか全くやってなかったので、帰りに紀伊國屋書店でデザインの本を買って読みました。株式会社ミライロが設立されて10日目に私が3人目の社員として入社しました。

当時は設立直後ということもあったので泊まり込みで仕事をしました。大学は卒業しようと3人で決めていたので、大学も行っていました。3年目にようやく黒字化して人が雇えるようになりました。結婚式場やホテルの研修講師が足りない、障がいのある当事者から教わることが最も納得力があるということで、車椅子の母を誘いました。

赤字だったら、お給料は?

奈 美給料は1年目はなかったです。2年目、3年目は赤字なんですが、ビジネスプランコンテストというのが当時、流行っていて、社長はプレゼン力と、車椅子ユーザー当事者ということもあってインパクトがめっちゃあったんです。障がいを価値に変える『バリアバリュー』、「車椅子でもできること」ではなくて「車椅子だからこそできること」。建築してしまってからバリアフリーに改修しようとなるとお金がかかる。建築前の段階から障がいのある人の意見を入れたら、正しいところに点字ブロックがあり、スロープもできる。「障がい者だからこそ価値になる仕事」はビジネスプランコンテストでは負けなしでした。私もビジコンでプレゼン力を学びました。 1、2年目は、滋賀県立大学や大阪大学から、ほぼ無償で大学のキャンパスのバリアフリー調査の仕事をもらいました。うちは阪大でやっていると言うと、それをきっかけに東大から仕事が入ったり、龍谷大学とか関西大学から仕事が入り始めました。大学生が頑張っているというので、仕事がくるようになり、大阪のメディアにも出るようになりました。
2011年に東日本大震災が起きて、被災地の情報をSNSなどで見ていると、障がいのある人が現地で困っている。募金を集めてパンクしない車椅子を送ろうとしたら、メディアが来てくれて、こんな会社があるというのが広まり、USJさんやテイクアンドギヴ・ニーズさんといった一部上場企業からも仕事が来るようになり、そこからようやく黒字という感じです。

ひろ実「ガイアの夜明け」は?

奈 美私は、営業やデザイナー等いろいろやっている一方で、納期が守れなかったり、連絡ミスとか、凡ミスがすごい多くて。なら、広報をやらんかと言われて、メディアへ売り込むことが得意になり、「ガイアの夜明け」は自分で企画書を持っていきました。「news zero」でも取り上げていただきました。

発想力・企画力がすごいですね。

奈 美小さい頃からネットの世界で自分がどう見られるかというのをすごく考えていたのが役立ったかもしれません。社長のスピーチ原稿も作りました。A4サイズのプレスリリースの中に決められた文字数で必要かつ目を引く情報を入れるよい訓練となりました。

note
~エッセイを有料で発信~

インターネット上のnoteというサイトでの文章が注目されましたね。

奈 美入社10年目でバーンアウトして会社を休職して、会社に行けない人間に何の意味もないと思ったときに、弟が一緒に温泉に行こうと言ってくれた話を書いたんですけれども、それは、それを誰かに言わないと自分の存在が意味がないものになってしまう、自分がじわじわ死んでいくみたいな状態になっていくので書くしかないよねと感じ、ようやく書けたのが、noteでした。

弟さんの話、すごくいいですよね。

奈 美誰かに伝えたいんです。父に褒められたいというのがずっとある中で、窮地に陥ったときにこれをやるんやという瞬発力になったのかもなというのは思います。

ひろ実パパは褒めなかったね。ある日突然、村上龍さんの「13歳のハローワーク」を持って帰ってきて、五百何十種類の仕事を見た奈美ちゃんがアナウンサーになりたいとか本屋さんになりたいとか言っていたら、「あほか、誰がここから探せと言うたんや。ここにない仕事をつくれという意味でこれを渡したんや」と。

奈 美向こうは応援のつもりとか期待のつもりなんですけれども、私は、何をしたらこの人はすげえと言ってくれるんやろうというのはずっと考えていました。

旅・好きな事やりたい事

最近、ニューヨークへ行かれましたね。

ひろ実私が胆石で年末年始も病院で、また何もできなくなって落ち込んでいたら、娘が、どっか行ったらいいねん、行ける行けるって。

ニューヨークは良太さんも一緒に行かれたんですよね?

ひろ実はい。ニューヨークにはまた行くと言ってます。現地では英語をしゃべってました。

ひろ実さんにとって旅とは?

ひろ実これまで行ったハワイ、タイ、ミャンマー、韓国は仕事で、私の目から見た町のバリアフリーとか、どういう文化で人がどんなふうにサポートしてくれるのかとか、そういう目線でした。

プライベートで行ったニューヨークでは誰も私のことを気にしてくれないことがすごい楽しかった。日本だったら、バリアフリーかな、車椅子で利用できるトイレはどこにあるかなというところから逆算して行動しないといけないけれど、アメリカは絶対バリアフリーだし、車椅子のトイレはほぼあるから、そういうことを気にしないでいい。心地よくて、自分の可能性というか、まだ私はやりたいことがあったわということに海外で気づきました。

これからやりたいことはありますか。

ひろ実2年前に感染性心内膜炎という生きるか死ぬかの病気になり、会社を辞めました。今は、個人のカウンセリングとか、企業の障がい者雇用のサポートといったコンサルみたいなことをしています。1週間に2日ぐらいしか働いてないんですけれども、それがすごい楽しい。また、たまに講演をさせていただくこともあります。ミライロの会社員の頃、私の人生の話をして何の役に立つんやろう、私なんて一人のおばちゃんやし、ただの会社員やしと思ったけれども、娘から勧められてやってみたら、好評で、学校や企業、自治体で話しました。今はリモートでもできるので、この人にしゃべりたいというところにだけお話を受けています。

「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」

NHKドラマにもなった「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」のご著書のタイトルは奈美さんがつけられたのですか?

奈 美「親孝行ですね」と言われるのが気持ち悪くて嫌なんです。親やから会社に呼んだわけでもないし、弟やから面倒を見ているわけでもない。私は自分に自信を持てなくて、母のことだけは、弟のことだけは、私の持ってないものを全部持っているという尊敬の気持ちが最初にある。そんな中で、写真家の幡野広志さん――血液がんの患者さんで余命宣告もされているんですけれども――から、NASAの定義では、家族は自分の選んだパートナーと子どもまでで、親は入らないというのを教えてもらったときに、「家族は選べる」という判断をしている人たちがいるんだ、だから、私も家族だから愛するとか応援するとかじゃなくて、愛したいとか応援したいと思ったのがたまたま家族というだけだったんだなと思ったときに、腑に落ちたというか、うれしかったので、noteのタイトルにしたんです。

バッシングも

このタイトルは、「家族やからせなあかん」なんて別に思わんでいいねんでというメッセージになっているのかなと思います。

奈 美9割ぐらいは共感してくれますが、「家族を押しつけられているようで辛い」といったメールも来ます。基本、気にしてなかったんですけれども、何人かとは2時間程しゃべりました。

優しい。

奈 美優しくないんですよ。私は傷つきたくないんです。そんなことは無理と思いながらも、基本みんなから褒められたいし、全員から愛されたいんです。だから、私のことを嫌いな人がいるというのは、理由を聞かないと怖いんです。それで聞きにいったら、最初は私への恨みつらみだったんですけれども、私が話を聞くとわかったら、どんどん話が変わってきて、最終的にはその子は、親から暴力を受けていたし、今も親にお金を払わされている、このつらさを誰かに助けられたかったし、誰かに愛されたかったのに、私よりも楽な状況で楽しそうな岸田さんに世間は注目するというのが悔しくて仕方がない、「ほんまに辛いことは明るく言わないと人は聞いてくれないというのが悔しいんです」と言われ、この子は辛いというのを誰かに聞いてほしいという思いがあったんやなと思ってから、結構ひどいことを言われても余り気にしなくなりました。

もう一人、「死ね」と言ってきた子は、発達障がいでいじめられていた子だったんです。それを聞いたときに、全部意味があるんやなと。私に言っているんじゃなくて、その人が私を通じて何かしら自分の心の穴を埋めようとしているんだなということに気づいたときに、何を言われても大丈夫やねんと。愛されない、嫌われることが怖くなくなったのはそういう経験からです。それも予想してなかったんですけど。

noteの有料マガジンで生活費を作る

インターネットのnoteというサイトで「岸田奈美のキナリ★マガジン」という有料マガジンを配信し、おばあさまを含めたご家族4人の生計をたてられているのですね。

奈 美noteを書いていたときに、佐渡島庸平さんという今私が所属している事務所の代表から、「岸田さんは、弟さんやお母さんのことで自分がとても傷ついてきたから、人を傷つけずに笑わせる能力があるんだね」と言われ、その言葉を聞いて会社を辞めることにしました。作家は、雑誌に寄稿したり新聞等で連載して出版してお金をもらうのが一般的ですが、佐渡島さんは、最初から自立していけるように、noteの有料マガジンで生活費をつくろうと言ってくれました。当時、そんなことをいってくれる編集者は佐渡島さんだけでした。

編集者さんでもあるんですか?

奈 美講談社で「宇宙兄弟」や「ドラゴン桜」のヒットを飛ばしたあと独立して、クリエイターのエージェント会社をつくられました。

ひろ実私もお世話になっているんですけれども、「『会社を辞めて金額が安くても仕事を続けないと』と思って量を取ることをしないほうが結果長く続けられる」「この条件でという仕事が来るまで待つ、好きな人と好きなことだけやっていけるようにしていこう」と言ってくださった。

奈 美作家がその時ほしい言葉をくれるんです。2年前の11月に、サイン会で1日300人ぐらいの対応を毎週して、疲れて軽度鬱みたいになってしまったんです。「こんなはずじゃないんで頑張らないと」と言ったら、佐渡島さんは「病んでるときに下す判断は全部間違ってるから今判断をしないで、全部先延ばしにしよう。2か月後には判断できるようになっているから、今はやめよう」と、全ての締切りを先延ばしにしてくれました。

弁護士会へのメッセージ

最後に、弁護士会に向けてメッセージを。

奈 美私に「障がい者死ね」というリプライをX(旧Twitter)で送ってきた人がいました。私のフォロワーの障がいのある人が読んだらショックを受けてしまうと思い、ちょっと強めに警告し、所属事務所の弁護士の先生にも相談したんですけど、DMで慌てて謝ってきたんです。それが明らかに子どもの書き方で、「人にネットで死ねと言うのは相当なことやと思うけどどうしたの?」と聞いたら、アカウントを消して逃げちゃったんです。けれども、数日後にその子のお母さんと称する人から連絡が来て、「息子が学校の先生に、岸田さんから訴えられるということで相談したらしくて、びっくりして。本当にすみません」と。それで連絡を取ったら、その子は発達障がいで「障がい者死ね」というのはその子が学校の友達から言われていた言葉でした。「あの子は自分がなんで発達障がいで生まれてきたのかとか、なんで自分がいじめられないといけないのかというのが分からなくて、ネットで人に同じようなことを言ってしまっている」と聞いたんです。

私は「前向きな諦め」という言葉をよく使うんですけれども、お母さんが歩けへんのはしゃあないとか、弟もグループホームに行って寂しいけど、それは弟が越えるべき壁やろうという、自分のつらさとか未練とかを「前向きに諦めたい」と思っています。その子も、発達障がいで生まれてしまったことは仕方がないことだと、ずっと諦めたいんだけど、それがなかなかできなくて誰かにぶつけている。

誹謗中傷を訴えてお金をもらう、というのは最近スタンダードになりつつあると思いますが、それでほんまに幸せになったかというと多分そんなことはなくて。私は、自分の思っていることを弁護士さんとゆっくり話していくうちに、どこかで諦めたい、消えない悲しさとか孤独と一旦区切りをつけたいと思い、その方法は私にとってはnoteを書くことだったんです。「何回思い出しても辛いし、苦しいし、情けないから、これは面白おかしい話にしてみんなに笑ってもらって、喜劇として自分で持っていこう」というのが私にとっての諦めだったので、調停とか裁判というのは、勝ち負けと言っているように見えて、ほんまはみんなどこかで自分の話を聞いてもらいたくて、諦めたくて、区切りをつけたいんじゃないかと思います。

私は書くことでしたけれども、弁護士さんたちが、また違う形で一人一人に向き合って落とし所をつくっていくのは、誰かにとってはめっちゃ救いになるんだろうなと思いました。

ありがとうございました。

2023年(令和5年)5月19日(金)

インタビュアー:飯島奈絵
岩井 泉
太平信恵
中川みち子

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