弁護士会から

広報誌

オピニオンスライス

津田塾大学客員教授・元厚生労働事務次官

村木厚子さん

MURAKI, Atsuko

村木さんは、2010年9月に無罪判決を得られ、その後、地検特捜部検事証拠改ざん事件に繋がった件で有名ですが、それ以前から、働く女性の星として知られていました。女性と仕事、被告人とされた立場から見た刑事弁護人との関係、刑事裁判、事件後のプロジェクト等について、伺いました。

雇用機会均等法

高知県のご出身で、高知県庁も考えていたけれども、国家公務員になられたのですね?

村木私が就職した頃は男女雇用機会均等法の随分前ですから、民間企業は女性を採ることはほとんどなく、採るとしても四年制大学卒業でも「短大卒の資格」で入社してくれるならという感じであることが分かり、慌てて公務員試験を受けました。高知県庁が第一希望でしたが、受けられる試験は片っ端から受けたので、国家公務員も受けました。

高知県庁に面接に行くと「女性の上級職の仕事は庶務です。」と言われました。同じ試験を受けているのに何で「女性の仕事は」と説明されるのか、私が多分凄く嫌な顔をしたのだと思います。向こうが慌てて「企画的な業務は男性だってなかなか就けないんだよ」と加えましたが、ここに行ってもきっと楽しくはないだろう、国家公務員に行ってみようと思い、生まれて初めて東京に出ました。

官庁訪問という慣習を知らなくて、内定日の1週間ぐらい前に慌てて東京に行きましたが、労働省は採用の公平を率先してやるべき役所だったので、女性や地方出身者を採るなどのルールを守って、チャンスをもらえたんだと思います。

高知県庁のために言うと、その数年後、雑誌「日経ウーマン」の「女性が働きやすい県庁大特集」で、1位東京、2位大阪、3位が高知でした。だから、ある程度覚悟させるための面接官の言葉だった部分もあるのだろうと思います。

入省後、85年に男女雇用機会均等法ができてから、仕事は変わられましたか。

村木労働省は雇用機会均等を担当する役所で、先輩女性たちが物凄く努力をされてきたので、ある程度男女平等が整っていました。その労働省でも私たちの頃は、上級職で女性は年に1人で、私の年は先に内定していた人と遅れて行った私の2人を採ってくれました。私の年で、上級職で女性を採ったのが、労働省が2人、厚生省が1人、文部省が1人、今の内閣府が1人、それ以外はゼロ、そういう時代で、女性比率2~3%という時代でした。

均等法ができ、労働省は更に均等を進めるということで初めて女性を3人採りました。「ご祝儀3人娘」と呼ばれました。

均等法施行の年に均等法のキャンペーンの標語を省内で公募し、「ご祝儀3人娘」の1人がつくった「今、個性は性を超える」という標語が当選しました。ところが、当時の役所職員はほとんど男性で「意味が分からん」と言われました。性はセックスの性でもあり、ポスターにして世の中に貼ることに抵抗があった時代で、省内の決裁が大変でしたが、「どうしてもこれがいい」と担当者たちは省内の決裁を通して標語がポスターになりました。

均等法は男性差別は禁止していない片面的な法でした。セクハラの規定もなく、募集、採用、配置、昇進も努力義務規定の弱い法律でした。でも、そういう時代に今のダイバーシティに通じる標語を発案する職員がいたこと、それを何とか世に出そうと皆が思ったことも、今考えると凄いことだったんだなと思います。

シンプルでいい言葉ですよね。

村木女性活躍というと抵抗を感じる方でも「個性は性を超える」というと、それはそうだねと言ってもらえました。

当時、私の同期の女性が均等法をつくる担当部局にいました。毎日何をしてるか聞いたら、「葉書の重さを量ってる」と言うんです。毎日毎日「均等法をつくってください」という葉書が来るけれども、数え切れないので、段ボールに入れて重さを量って、それを葉書1枚の重さで割り算して、何枚、こういう要望・要請がありましたという記録をつけていました。

国際条約があり、最高裁まで行った若年定年の裁判*1があり、葉書が届くような市民運動があり、それらがあったから法律ができたんだなと思います。国会でも反対が多かったし、経団連にも日本の公序良俗に反すると言われた時代だったので、均等法ができたのは、歴史的に見ても大事なプロセスだったと思います。

※1 定年男性55歳、女性50歳とする定めは合理性がなく公序良俗に反し無効とした(日産自動車事件 最三小判昭56. 3. 24)

保育ママに助けられて

村木さんは労働省同期の配偶者さんと、ご実家も遠い中、お二人のお嬢さんを育てられた、村木さんの1か月の海外出張中は保育ママさんにずっと預けたと伺いました。

村木労働省の先輩で子どものいる人は東京出身が多くて、ご実家の支援がある方が多かったんです。その先輩たちが「省内であんたのところが一番悲惨なケースだ。だけど、あんたたち夫婦だけの子育てで仕事を続けることができたら、後の人もみんなできるよね」と。省内の女性のネットワークが凄くて、地方に初めて赴任するとか、管理職になるとか、子どもが生まれるというときに必ず数人集まってご飯を食べながら「私はこうした」という話をするんですが、そういう場面に独身女性も来てくれるんです。例えばキャリアが地方へ「課長」として行くと、若くて「どこのお姉ちゃん?」と見られるので、「真夏でも頑張ってスーツを着なさい」という話から始まって、保育ママさんの仕組みを教えてもらったのも先輩からだし、この伝統には凄く助けられました。

私たちの世代は少し人数が増えてきたので、子どもが生まれたときはどうした、預ける先はどうした、親の力はどうやって借りた、ストレスがたまったらどう解消したといったことをがっつり書いてもらうアンケートを実施したり、そのコピーを冊子にして、子どもが生まれる人に渡すことを始めました。何回か改訂されて省内で続いたと思います。

1か月の海外出張は上司から「あんたの仕事で国際会議があって、1か月だけど行くか?」と聞かれました。当時、夫が長野に赴任し、母子家庭状態でした。それを知っていて女性の上司がそう聞くんです。「行きます」と答えました。あてがあったわけではないですが、若かったので、行けないと言うことに抵抗があったんでしょうね。「行きます」と言ったら保育ママさんを見つけてくれる人がいて、1か月その保育ママさんの家から、いつもの保育所に通わせてくれることになり、娘に合宿という言葉を教えて、1か月預けて出張に行きました。

それから20年後ぐらいかな、そのときの上司とはずっと仲良しだったので飲み会で、「母子家庭だった私に海外出張に行けってよく言いましたよね」と言ってみたら、「そうよ、村木さん、行くって言うからびっくりした」って。村木の仕事で国際会議があるから、村木に最初に言うべきだ。言うべきだけど、きっと行けないから、代わりに行ける奴を探しておいてやろう、そう思って私に話をしてくれたらしいです。

当時、お嬢さんはお幾つぐらいだったんですか。

村木4歳かな。帰ってきて娘と2人でお風呂に入っているとき、何かの拍子に出張という言葉が私から出たんです。そしたら、「もう出張、やだ」と言われました。その1か月で、まるきり大人になっていたので、いい経験ではあったんでしょうけど、娘にとって試練だったと思います。残業や出張の時のために、本を読んだものをテープに吹き込んで、夜寝るときに、保育ママさんの家でそのテープを聞きながら娘が寝たりして、お母さんは私のことをほったらかしだとは思わないけど、でもやっぱり凄く寂しかったというのが娘の実感でしょうね。

娘たちが中高生ぐらいのときに、働くお母さんになるのか、専業主婦になるのか聞いてみたんです。2人とも「働くんじゃないの」と言ってくれたので、全否定ではなかったのかなと。上の子は「早く帰る努力はするけどね」とも言ってました。「お母さんは楽しそうに仕事をしていたから、社会に出ることや働くことについてマイナスのイメージは持たずに済んだのはよかった」というのが上の子の感想でした。

刑事事件

次に、例の刑事事件について、次の点を伺うようリクエストを受けています。①弁護人を依頼するに至った経緯、②弁護士費用についての不安、③逮捕前後を通じた起訴前弁護、起訴後、保釈手続を含む無罪判決に至るまでの弁護活動について、利点や問題点・疑問点など、④依頼者側から見た弁護士・弁護活動・弁護士会などへの本音が聞ければありがたい、とのことです。

村木だんだん変な報道が流れるようになると、当時の厚労省の人事担当課長がとてもいい人で、「村木さん、とても嫌な感じがするから、早く弁護士を探して相談に行ったほうがいい」と言われたんです。役所で前に弘中惇一郎弁護士にお世話になった人に勧められ、相談に行きました。弘中さんは、私が昔お仕えした女性上司のパートナーだということも分かって、「うちの亡くなった妻の部下だったならお手伝いしなきゃね」と言ってくださったんです。弘中さんから「何も隠さない、うそを言わない、そういうことをきちんとしておきましょう」ということと、私、メモ魔だったので、「今ある記録のコピーを全部取って自分が預かりましょう。万一持っていかれたらそれが見られなくなるから」と言われて、それをやったんです。

手帳から何から何までですか。

村木メモと業務の記録があったので、それを全部お渡ししてコピーを持っておけたことは凄く大きくて。自分の考え方とかやりたいこと、守りたいことをちゃんと守ってくれる、そこに齟齬がない人だと思えたのも凄くよかったです。

その後、逮捕・勾留されて、取調べという一番脆弱なところを弁護士なしでやらなきゃいけない、それもルールを知らないまま土俵に上げられる感は凄くありました。それでも私の場合は弘中さんと事前に話し、最悪だったらこういうことがあると知っておけたことは大きかったです。

取調室の中では、調書にサインするかも1人で決めなきゃいけない。調書を弁護士さんに見せてから判断することはできない。それでも弘中さんには大阪まで通っていただけて、大阪の信岡登紫子弁護士、栗林亜紀子弁護士にも入っていただき、私の場合は相当ベストな状況で弁護をしていただけたので、不平不満を感じることはありませんでした。

夫が働いていて、私が捕まったからといって職を失うわけでもない、非常に恵まれた状況でしたが、弁護費用は幾らになるんだろうという経済的な不安はありました。ただ、頑張ってそれを負担していける環境にはあったので、そこはあまり辛くはなかったです。

保釈後、裁判にあたり、弘中さんに何遍も「村木さん、どうしたい?」と聞かれました。私、どうしたらいいか分からないから聞かれるのが嫌で、「決めてよ」という気分だったんです。でも、弘中さんは相当しつこく聞くんです。私が困っていると、「こういうやり方があって、メリットはこれで、デメリットはこれ」「言いたいことを主張するのか、最低限のイエス・ノーでやって何かを言ってリスクが生まれることを避けるのか」といったことをその時その時で聞かれるんです。後で振り返ったときに、そう聞かれることで、私の闘いなんだという自覚を持てたのだと思いました。自分が選び取って責任を持たないと、勝ったときはいいかもしれないけれども、負けたときに無力感だったり恨みだったり、負の感情が残ったんじゃないかと思いました。

福祉でも、支援者が幾ら一生懸命になってもそれだけでは駄目で、本人が自分の人生をどうしたいか、自分はちゃんと闘えるとか、自分が選んだ道をどう歩くかといった主体性を持てるまでに回復して自信を持たないと、立ち直ったように見えても、また落ちちゃうということがよくあるんです。

私の闘いも、そうやって選び取り、自分で考えたことが財産になったと思います。一つの仕事をやったのと同じような自分自身の経験として残ったことは大きかった気がします。

家族の面倒をよく見ていただき、栗林先生にもお世話になりました。家族が弁護団と仲良くなって、家族のメンタルヘルスも助けていただいたのが大きかったです。この間の袴田さんのお姉さんのお話*2もそうですが、家族の闘いでもありますよね。だから、そこをサポートいただけたことは本当に大きかった気がします。

※2 2023年7月8日大阪弁護士会で行われたシンポジウム「ノーモアえん罪!「おはよう朝日です」岩本計介アナと考えるかしかとたちあいの未来」袴田巌さんのお姉さんである袴田ひで子さん、村木厚子さんにもご登壇いただいた。

栗林先生、家族のサポートというのは何をされたんですか。

栗林お嬢さんたちも村木さんのことを心配して、自分たちでできることなら何でもしたいとおっしゃっていました。当時、お姉さんはもう働いておられて、妹さんは受験生で、夏休みは大阪の予備校に通って、毎日お母さんの接見に行く、そういう方たちでした。だから、私が特別何かをしたというよりは、彼女たちと一緒に村木さんを励まそうとしてきたという感じです。

信岡先生と栗林先生はどこの時点から弁護に入られたんですか。

栗林障害者支援に関わっている方たちで村木さんの支援者が全国にいて、村木さんが大阪で逮捕されたということを聞いた支援者のお一人が、大阪の弁護士をつけなきゃ駄目なんじゃないかと考えて、女性で刑事弁護をやっている信岡のところに起訴後の8月ぐらいに電話がかかってきたんです。テレビで見ていた事件だったので、「あの事件の話をしている、絶対に引き受けてほしい、絶対やりたい」と思って耳をそばだてて聞いていました。弘中先生たちと一緒にできるかは弁護団の相性もありますし、村木さんのご希望もあるけれども、結果、一緒にやらせてもらうことになりました。

村木弘中さんたちも、相性があるよなと及び腰でしたが、やってみるととても素敵な弁護団になって楽しかったです。

地元の先生に入っていただいたおかげで、大阪の裁判官のことをよく知っているし、検事たちの情報も入ってくる。裁判期日のたびに美味しいものを食べに行ける。保釈のときは超プロの運転手さんで、マスコミを全部巻いてくれて、ホテルも用意していただいて、ホテルにマスコミが1人もいない状況で娘と久しぶりに会うことができて、あのチームでなければあんな風にはいかなかったなと思います。

無罪になった日もマスコミに追いかけられるからと、かなり外れの旅館に全員で行ってお祝いしたんですけれども、私、弘中さんに「ほかの弁護士さんでも同じ結果になりましたか」と聞いたんです。そしたら河津博史先生が、「無罪という結果は一緒だったかもしれないけれども、プロセスは結構違った可能性があるよね」と言われたんです。弘中さんは寄り添い型だけれども、弁護士主導になっちゃうケースもある。例えば私が言いたいことを言ってもフォローできる自信があるのか、それとも、決まったことを言わせて、それでストーリーを書いていかないと、そこから外れるとリスクがあるという状況なのか、その方の力量もあるし、弁護士さんの寄り添い方もいろいろなので、弘中先生だから、ああいう形の弁護ができたと言われたので、弁護士さんと被疑者・被告人の関係はいろいろ幅はあるのかなと思いました。私はベストのチームでやっていただいたので非常に幸せだったと思います。

弘中先生の事務所の先生も何人か入っていらっしゃったんですか。

村木若手の方がお二人と、別の事務所から河津さんが入られました。その頃、制度が変わったので、それをフルに使いこなせる人という意味で河津先生にお声がけをしたと聞きました。

栗林公判前整理手続が始まったばかりの頃でした。

村木私、初めて裁判所の法廷に行ったのが自分の裁判だったんです。そこそこ大きな部屋で、証言する席は、裁判官を見上げて、すり鉢の底にいるような感じがありました。物凄いプレッシャーで、自分の名前や住所を言うのも足元がふわふわしているというか、凄く特別な感じがして、あそこでしゃべることの緊張は半端なことではなかったです。「今日傍聴に来ている人で知っている人はいますか」と裁判官に聞かれ、後ろを振り返って、映像としては見ているんですけれども、それを識別して見ているかというと、どうやっても頭に入ってこないとか、本当にあれは難しいなと思いました。

あとは、検察の意地悪な質問にどう対応するか、河津さんに模擬質問をやってもらったんです。それが凄くよくて、本当に意地悪で、自分が追い詰められていくのが分かるんです。意図しないのに追い詰められていくのは、検察の取調べのときも同じテクニックだなと思いました。一般的なことを質問しているように見えて、ストーリーの中で聞くとそれが特別な意味を持ってくるような聞き方をされていく。予行練習をしたことで、法廷で検事の質問にはこういう意図があるんだとか、このストーリーを聞いている人がどう聞くかという目線が要るんだということを分かったことは凄くよくて、被疑者・被告人になるというのは大変だなと実感しました。

厚労省のお役人で人前で話すことにも慣れておられたと思いますが、それでもそんなふうになるんですね。

村木国会もさんざんやっていて、いかに困らせるかの質問が来るというのも似てはいますが、それでも法廷は、えも言われぬ緊張感です。逃げ切ればいいとか、答えればいいというのではなくて、自分はやっていないと分かっているけれども、それを知らない裁判官が最後の判断をする、裁判官から見てどう映るかを想像して答えることが物凄く難しくて。検事とのけんかに勝つだけならいろんなやり方があるかもしれませんが、それを見て裁判官が判断する、裁判官にどう聞こえるかとなるともう一つ別次元の感じで、裁判官がどう判断されるか分からない中で自分がやっていることの不安というのは凄くありました。 調書も、文書を書くことは仕事で慣れていて、自分がしゃべったことが書かれたら、ここが事実と違うというチェックは辛くなかったんですが、自分の思い込みを外して、これを読んだ人がどう思うかとなると、調書のときも辛くて、それが嫌だな、弁護士さんに相談したいなと感じました。 それを今度は法廷で自分の運命が決まる状況でやらなきゃいけないことのプレッシャーは凄かったです。一生のうちで一番緊張した瞬間じゃないですかね。

我々の仕事は、常に第三者目線なんです。当事者に寄り添いながら、最終的に裁判所がどう見るのか、事実をどうやって認定してもらえるのかを競い合う。私どもは当事者目線に、当事者は第三者目線にと、上手いこといけばよい結果が出るのですが、うまくいかないと、ずれたままで終わってしまうことがあります。

村木準備のときに、こう見える、こう聞こえる、こういう先入観で聞いているはずだよということを大分言っていただきました。面白かったのは、法廷に行くときにスーツはやめておけと言われたんです。官僚に対するイメージ、無意識の先入観は簡単には拭い去れないと。そう見られるのか、そう思われているのかということをいろいろ言っていただきながら裁判を闘いました。

若草プロジェクト、共生社会を創る愛の基金

次に、現在の活動についてお伺いします。若草プロジェクト等についてお聞かせいただけますか。

村木拘置所の中の景色はなかなか衝撃というか新鮮というか。一つは、自分のところに食事を運んでくるとか、洗濯物を取りに来てまた夕方持ってきてくれるのが結構若い女の子たちばかりで、真面目に仕事をしているこんな子が何でこんなところまで来なきゃいけないのかと思って、私は取調べの検事をつかまえて、あの子たちは何したんですかと聞いたら、薬物と売春と言われて、凄くショックでした。それで、手前で止められないかということに凄く関心を持ちました。また、検事さんから、僕たちは正月前は忙しいんですよ、逆算して万引きとか無銭飲食でお正月前に入ってくる人がいっぱいいると聞きました。私は独房にいるけれども、中ですれ違う人を見ると、食事を運んだりするのは体力のある若い子がやっているけれども、紙袋の内職みたいなことをやっている部屋があって、そこにいる人はもっと年がいってるし、廊下ですれ違う人を見ると、多分知的な障害や精神疾患があるなと思える人も凄く多い。刑務官の部屋に行ったときに、20か国語ぐらいで簡単な言葉を書いた単語表があって、こんなに外国人が多くて、こういうやり取りをやっているんだと思ったんです。府中の刑務所にはハラルの指定があるような部屋もありますよね。

こんなところだったのかというのが大発見で、最初は怖い人や悪い人がいるだろうから受刑者とすれ違いたくないと思っていたのが、あっという間に怖くなくなったんです。「なーんだ、福祉現場と同じ人たちじゃん」という感じで、この現実を知ったのは結構ショックでした。

まず、累犯障害者の人たちの支援として「共生社会を創る愛の基金」を始めました。もともと「獄窓記」なんかで累犯障害の人がいることは分かっていました。それをやってくれる田島さんという立派な社会福祉の関係者がいて、そこに国家賠償のお金を…

全額寄付しちゃったんですよね。3,300万。

村木ちゃんと弁護士費用はどけましたよ。

障害があるがゆえに犯罪につながっていくというのは、発達障害も軽い知的障害も含めてたくさんあることなので、この支援は結構価値があるかと思います。ただ、凄く地味なので、なかなか世間的に注目されることはないのですが、今年も大会をやって、もうすぐオンラインの配信もします。今年は「ケーキの切れない非行少年たち」の宮口幸治先生やお好み焼き「千房」の中井政嗣会長*3に来ていただきます。地道に草の根の活動の応援とか調査研究をやっていこうと思っています。 若草プロジェクトの方では、若年の女の子の支援をしています。被害者にもなりやすいし、そこから加害につながっていく子もたくさんいます。これは割と世の中の人が関心を持ってくれたので大きな活動になり、ありがたいなと思っています。これからも進めていこうと思っています。

それから、関東中心ですが、児童養護施設を出た後の子どもの自立までのプロセスを応援する活動をやっています。全国に広げられそうなところまで来ています。 事件がきっかけで関わったことはこれからも頑張って続けていこうと思っています。私もそうでしたが、世の中の人は、犯罪って自分からは遠いところにあると思っているし、刑務所にいる人は悪い人で怖い人だと思っている。けれども、私が厚労省でやっていた困窮とか障害という問題と背景は重なっているので、そういうところで少し世の中の偏見もなくなり、理解が深まって、更生がスムーズに進むようなことがちょっとでもできたらいいなと思って、これからも活動を地道に続けていこうと思っています。

※3 刑務所出所者及び少年院出所者の再犯防止を目指す「職親プロジェクト」発起人

役所の中で福祉政策をやるのと、今、NPOの形でやられるのとは大分違いますか。

村木民間の活動だと、やりたいと思うことをすぐできるし、目の前の人のことをどうするかということを考える。私は37年半も役所にいたので、役所の性癖が抜けなくて、ここに繋がっていない子はどうなるのか、横展開できないのか、最終的に制度にできないのかとつい考えちゃうんです。身軽に動けるところが支援に手をつけることで見えることがあるので、現場を大事にしながら、でも、私の得意技は横展開の方なので、そういうところまでいけたら一番いいのかなと思っています。

自分が反省しているのは、頭が固かったなと。役所としてできないことは諦めていましたが、大事なことはみんなで何ができるかと考えること。役所でできること、民間でできること、企業にやってもらえること、あるいは弁護士さんのような専門職の人にやってもらえることを考えて、力を合わせたほうがいいんだと思えるようになったところが役所を辞めてから8年間で変わってきたところかなと思います。

みんな思いがあって活動しているけれども、そこだけになってしまうところを、村木さんみたいなキャリアの方が横につなげていこうというのが凄いなと思います。いろいろな人が合わさるというのがいいことですよね。

村木若草でもリーガルサポートといって、法律的な解決が要る問題を抱えている子が結構多いので、協力してくださる弁護士さんに登録していただいています。法テラスもあるけれども、そこだけじゃなくて、特に未成年で法律的な支援が要る子を救う仕組みがもうちょっとできたらと思います。まだ大分先ですが、問題意識としては持っていたいです。

民間でいろいろな試みをされていることを制度化してシームレスにつなげていくと、安心して生涯を送れるので、村木さんのアドバイスは凄く大きいんだろうなと思います。

村木繋がることができたら凄くいいなと思います。特に刑務所まで行く人はとりわけいっぱい課題を抱えていますよね。解決もいろんな人がつながらないとできないんだろうなというのも見えてきたし、そういうふうにできたらいいなと思います。

村木さんは、いろいろな経験をすることで掛け算で自分のできることが増える、断るな、階段を上がったから見えるものもあるんだとおっしゃっていますね。

村木案外自分の力って自分では分からないですよね。これだと思い定めるものができたらそれに突き進んでいいと思いますが、それがないのなら、声がかかるところが多分得意分野とか強みなのだろうと思って仕事をしたらと思っています。

少年院、刑務所、刑法改正、再犯防止の制度設計

刑事の厳罰化が進み、刑務所の役割が拡大されました。

村木成人年齢を変えたときに、児童養護施設の担当だったので法務委員会に呼ばれました。18歳になったから、20歳になったから、いきなり人間の仕様が変わるわけではなくて、徐々に変化するものを制度的に途中でぶった切っているだけだと思うんです。成人年齢引き下げにこれだけ反対運動が起こるなら、大人の制度の中に少年向けにやっていた制度を突っ込んでくれればいいのに、まだ可塑性があって変われるんだということを大人の刑法の世界にも持ってきてくれないかとあの頃思っていました。

今度、刑法そのものが変わるし、それも含めて大人も変わり得るし、更生支援をする発想を全体として強めていけるチャンスだと思います。再犯防止の法律ができたこともあって、塀の中の支援と塀の外の支援がつながるチャンスだと思います。再犯防止は計画をつくる委員もやらせてもらっているので、これからもできることをやっていきたいと思っています。

少年院のカルチャーと刑務所のカルチャーは全然違って、刑務所でも少年院みたいなことができるんだと法務省は主張されましたが、組織的な成り立ちのカルチャーを変えるというのは、法律を変えても変わるわけではないと思います。

村木児童自立支援施設を厚労省は持っていて、もっと年齢が低くて同じように非行などに走った子は少年院ではなく児童自立支援施設にいるんです。みんなかわいくて、家庭の状況がよくないので小柄で、でも、反省文を見ると、強姦というような言葉が平気で出てくる。だけど、その支援というのはやっぱり児童養護であり、児童福祉の世界です。そこと少年院のカルチャーも凄く違うし、刑務所のカルチャーももっと違うので、カルチャーを変える仕掛けを入れられるかどうかだと思います。

運用だけで変えるのはなかなか難しいので、チャンスがあるとすれば今度の刑法改正と再犯防止で外の目が入ること。それがきっかけにはなり得るかと思うので、制度改正に私も賛成ではなかったけれども、変わってしまった法律を前提にするなら、今度の刑法改正の話も含めて何ができるかというのをやらなきゃいけない。 役所は「課題がある」と言わないと新しい政策とか予算は取れません。法務省も裁判所も問題があったらたたかれる役所で「課題がない」「問題なくやれています」と言いたいところですが、課題があると言わないと政策とか機構改革はできないので、「課題があって、こうすれば国民がもっと幸福になる」とか「犯罪が減る」とか「再犯が減る」と言える力が要る、海外の刑務所を見てきて、こんなに違うのか、じゃあ日本でもこうやるぞといったときにも役所としてのパワー、やる気と勢いと腕力が要る。どうやって、てこ入れをできるかというのは結構大きな課題かもしれません。

村木官僚塾をやっていただいて、裁判所を鍛えていただきたいです。

村木弁護士会からもいろいろなことを言っていただくとか、犯罪周りのところにいる福祉や一般市民に近いところが声を上げるとか、海外の仕組みがいろいろ報道されて世の中の人が「え、そうなの?日本って遅れてたの」みたいなことに気がつくとか、戦略はいろいろあるかもしれませんね。

労働省は、昔はそれほど強くない官庁だったのではないかという認識ですが、今は働き方改革とか残業時間規制も含めて非常に物を言う役所になって、裁判所もその動向についてはかなり関心を持っているようです。官庁としてそこまで強くなった熱というのはどこら辺にあるのでしょうか。

村木労働組合が非常に強かったときは、労働省は政治にも近くてパワーがあったけれども、そこから割と地味な役所になっていって、また強くなったのは、一つはニーズが高まったこと。ニーズがあるところは頑張って仕事をせざるを得ない、仕事をすると一人一人のパワー・経験値も上がっていくというよいサイクルが回るというのが一つです。

それから、省庁が合併した中で厚労省は相当積極的に中の融合を進めた役所だと思います。合併の官庁はバトルもあって辛かったんですけれども、異なるものが繋がって接点を持った中での刺激も大きかったと思います。行政手法として直轄の部下を持っている機関と、都道府県を通じて仕事をする機関とか、権力・法律で規制して動かす官庁と、お金を配って動かす官庁といった異質なものがぶつかったことでトレーニングされる部分はあったのかなと思います。

合併のときにどの省庁もガチャッとくっつけただけでしたが、厚労省だけ雇用均等・児童家庭局を当時つくって、局も一緒にしちゃったんです。今はもうないですが。仲が悪くて、3年間は中で大げんかしました。働くお母さんを応援する体質の役所と、子どもを守る体質の役所なので、利害対立があって、しかも子どもを守る方は男性職員が圧倒的に多くて、女性の働き方を考えるところは圧倒的に女性職員が多い。一緒の局になって喧嘩が絶えずにしんどかったんですけれども、3年ぐらいたったときに、ふと物凄く仲良くなるんです。それは、「お母さんは幸せだけど子どもは不幸」だとか、「子どもは幸せだけどお母さんは不幸」ということはない、「両方が幸せになる道」を探さなきゃいけないという連立方程式を解くんだということをふと理解した瞬間が来て、労働省の中で一番地位が低かった女性局と、厚生省の中で一番地位が低かった子どもの局が合わさって、その頃からステータスが上がるんです。女性活躍、子ども支援、少子化、保育所の対策などで凄く日の目を浴びた局です。

辛かったけど違うものが一緒になって、そこで無理やりにでも化学反応を起こしていき、そこに社会的に望まれる仕事が来て、優秀な人がその局に行って仕事をしたいと言ったという幾つかの要素が重なってとても強くなったんだと思います。課題設定がちゃんとできたことと、変化の中で新しいものを取り入れて仕事をしていく環境みたいなものを持てたというのがよかった点かなと思います。

では、本日は長時間にわたり、本当にありがとうございました。

2023年(令和5年)7月28日(金)

インタビュアー:阿部秀一郎
太平信恵
飯島奈絵
平野惠稔
栗林亜紀子

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