弁護士会から

広報誌

オピニオンスライス

長浜市長

浅見宣義さん

ASAMI, Nobuyoshi

浅見さんは1988年に任官後(修習40期)、預金保険機構への出向を含み、33年間、裁判官を務め、2021年に大阪高裁判事を依願退官し、故郷である長浜市の市長選に出馬し、当選して市長になられました。日本唯一の裁判官出身の首長です。日本裁判官ネットワークのメンバーとして司法改革に臨み、判例時報等に多数の論文を発表されています。宮崎地裁時代は、今でいう育メンとして、二人のお子さんを連れて赴任され、同期の配偶者(中井洋恵会員)が週末に大阪から宮崎へ往復されたことでも有名です。

裁判官時代に印象に残っていること

裁判官時代に一番印象に残っていることは何でしょうか。

原発事故による福島からの避難者の事件が一番心に残っています。福島から京都に避難された方々が、東京電力と国を訴えて、4年間審理をし、2回目の口頭弁論期日から最後までやり切った事件でした。当事者には女性が多く、家族が離れ離れになったり、離婚されたりして、精神的な負担も大きかったようです。法律論点もたくさんありましたので、法律家としてもやりがいのある事件でした。

もう一つ、別の観点では、裁判長選挙制度の廃止の件です。司法行政の問題ですが、日本で唯一残っていた大阪の選挙制度が廃止になり、非常に残念でしたが、その中で裁判官の考えや行動原理の問題点を感じました。

裁判長選挙制度自体を知らないため、そこから教えてください。

裁判長選挙制度とは戦後の裁判所改革の中で生まれたもので、裁判長を裁判官の選挙で選ぶ制度です。1950年代に廃止の方向に流れたのですが、大阪地裁だけずっと残っていました。特例判事補以上がみんなで選挙をして、選ばれた人を最高裁に推薦して裁判長にする制度でした。僕が任官した頃もまだあって、その制度が大阪の裁判所の雰囲気を作っていると言われていたのですが、それが平成8年(1996年)3月に廃止になりました。その後は所長の推薦のみで最高裁が任命するという制度になり、全国一律にそうなっています。大阪が最後に残っていたのですが、それをめぐる動きというのが非常に印象的でした。

論文「法廷に花を」、裁判官懇話会

平成8年のときは浅見さんは大阪に帰ってこられていたんですか。

堺支部にいました。

浅見さんが「法廷に花を」の論文を書かれたのが堺支部ですね。

はい。司法改革の志を立てて動き始めたのは堺支部です。子育ても大変な時期で、仕事も大変だし、「何でそんなときに論文を書いてるの」と妻に怒られたんですが、そういうのが好きなので書いていました。

マンガ「家栽の人」に載った論文はまた別ですか。

いや、それです。あれを書いたのは平成6年(1994年)から8年(1996年)頃で、6年のものが一番最初です。

裁判官懇話会も最後までやられたんですよね。

平成14~15年(2002~2003年)辺りまででなくなりました。

裁判官の意識改革

その辺りに、裁判所の中の雰囲気も変わってきた感じはあったんですか。

いろんな見方があると思いますが、裁判実務の面ではかなり変わりました。僕が裁判官をやっていた33年6か月間は、裁判所は非常に動いた時期だと思います。特に平成になってから民事の司法改革はかなり進みました。その中で大阪地裁がすごかった。西さんとか井垣さんとか何人か有名な裁判官がおられて全国の実務を引っ張り、井垣コートとか西コートのように何々コートというのが生まれたのがその時期です。福岡方式が生まれたり、全国で自由に集中審理や審理の改善をする裁判官が生まれ、実務面では裁判官はその時期に考え方も含めて変わっていったと思います。その後、裁判員裁判が平成15~16年(2003~2004年)に入って、それはまたすごく裁判官の意識を変えたと思います。

どういうふうに変えたんですか。

びっくりしたんですけれども、左陪席の人は、裁判員になじんでもらうために弁当を一緒に食べて、おしゃべりをしているんです。裁判員裁判で国民と直に接して裁判のことを分かってもらわないといけない、国民と議論しないといけないという制度が導入され、裁判官の意識を明らかに変えました。裁判員に分かってもらうためには、分かりにくい証拠や難しい書面を何十と並べて証拠調べしていては駄目だという意識になり、直接分かる証拠や、目の前でしゃべってもらうとか現地に行くことが大事という意識がどんどん強まりました。裁判官は民事でも刑事でも変わっていったと思います。

刑事が変わったら民事も変わってきたということですか。

先に民事が変わって、それから裁判員裁判が入り、刑事も変わりました。そういう大きい2つの流れがあったと思いますが、ただもう一方で、司法行政の面はなかなか変わっていかなかったということは現実としてあるかと思います。ただし、昔ほど締めつけみたいなものは、あまり意味をなさなくなってきたような感じもするんです。自主的に何かをする、自主的に変えていくという意識が民事でも刑事でも大事にされてきているので、裁判所はそんなに悪い方向には行っていないとは思います。民事でも刑事でもいい制度を作ったんじゃないかと思うので、若い人にはそれを育ててほしいです。どこで頑張ってほしいかというと、今はITですね。オンラインがもう当たり前になって、法廷であまり相手方と会わなくなってきましたね。

オンライン裁判で期日間を短くして会う機会を増やす

裁判所や弁護士会にも全然行かずに全部オンラインで済ませています。

直接主義というところからは問題視されるとは思いますが、会う機会は増えたと思います。前だったら1か月、2か月と空くのは当たり前だったけれども、今は短くしようと思ったらどれだけでもできると思います。オンラインでも、とにかく会う機会を増やすことが大事です。オンラインだと一回一回の印象は少し下がるけれども、そこは回数で掛け算をして審理の実質が増えるようにすべきだと思います。そういう意識を持っている人はきちんと期間を短くして会える機会を増やして、準備もそこそこにして、とにかく審理の中で真相を明らかにしていく。そのためには絶対会ってしゃべらないといけない。それをやるにはやっぱり若い人のほうがいいのです。ITを使って。そういう面でもすごく期待しているし、ITが広がるのはいいなと思っています。

裁判所、弁護士への期待

「希望の裁判所」(注:日本裁判官ネットワーク編で2016年に出版された書籍)は、希望の裁判所のままで辞められたということですね。

もっともっと希望になってほしいなと思っています。僕は今、政治や行政に関わっていますが、法律の解釈が問題になることが結構あります。長浜で7月にあったプールでの大きな事故についての第1回の第三者検証委員会が今日ありまして、出席して挨拶をしてきました。あの事件では、市は直接管理していた当事者ではなくて、放課後児童クラブに委託しているのでそちらが安全配慮義務を負うのですが、委託した者の責任はどうかという法的問題は残るわけです。どこまで予見して配慮義務があったのか、制度構築義務があったのか、そういうところは今日から検証委員会で学者の先生方に議論してもらいます。

法的問題はすごく多いです。長浜市にも顧問弁護士がいますから、連絡して、これどうですかねと問うこともあって、ローヤーの存在意義は、昔の僕らのときに比べると格段に大きいと思います。

裁判所や弁護士にはすごく期待しています。

希望の裁判所に向けて使いやすい司法の実現が必要です。そのために裁判官も積極的に前に出ていくということもどんどん進めてほしいと思います。

一方、自分が裁判官をやっているときも、当事者の声を掘り起こして事案解明するのは弁護士の責任だと思っていたので、裁判所の言うことばかり聞いてあまり調べてこない先生よりは、やいやいと強いことを言ったりするけれども、自分で調べて自分で組み立てて一生懸命やる人が一番いいなと思っていたんです。弁護士さんには頑張ってほしいと思っています。

裁判官を辞めて市長になろうと思った理由

どうして市長になろうと思われたのですか。

僕は、中学時代から政治家志望だったんですが、私たちの若い頃は、政治家になるには5億円かかると言われていて、地方の次男坊には無理だろうと思いました。そこでしっかりした資格を取って仕事をしながら政治家への転身を考えようかなと思っていたんですが、裁判官の仕事はとてもやりがいがあるので、それに没頭していたのは確かです。だけど、年も取ってきてそろそろ次のことを考えなきゃいけないので、昔の思いから政治家への転身を本気で考えました。もう一つは、裁判官として地方をいろいろ回って人口減も進んでいると感じ、その中で故郷のことを考えると政治家としてやりがいがあると考えたこともあります。長浜は地域資源が数多く存在するところで、観光資源もあれば、工業もあり、農業もあります。恩返しのためにそういうものを生かして故郷の再生もやりたいなと。それが正直なところです。昔の思いと故郷への思い、この2つがあり、政治家に転身しようと思いました。

市長になろうと思ってもタイミングもありますよね。

前職の長浜市長が問題を起こされていろいろ批判を受けて辞職勧告決議が通ったにもかかわらず辞めずに居座られました。市民の批判もあり、これは僥倖というか、チャンスかなと。人生ってそんなチャンスはあまりないから、僕も年を取ってきたし、次の人生を考えなきゃいけないところで、このチャンスは手放したらいかんなというのは正直思いました。

選挙の準備

選挙の準備はどうされたんですか。

僕は令和3年(2021年)の10月18日に辞めて、当日故郷に帰り、その日に同級生を集めて飲み会をしました。そこからが基本的なスタートです。準備は、県会議員や市会議員に多くを教えてもらって、それをマニュアルとして準備しました。奈良県知事になった弁護士の山下真さんが知り合いだったので、来てくれました。あと、奈良の宇陀市長をしていた同級生がいたので、その同級生にも話したら是非応援に行くと言って来てくれて指南してくれました。投票が2月27日でしたから4か月しかなかったけれども、びっくりするぐらいみんなが助けてくれまして、中身の濃い4か月でした。

でも、批判も物すごく受けまして、地方では法律家というのはすごく誤解されていてね。

どんな批判を受けるんですか。

法律家の皆さんが出ていたら同じ批判を受けるけれども、左だの赤だの……。

裁判官なのに?

そうです。法律家は全て同じイメージのようです。うちの妻は弁護士で日弁連だから赤だとも言われました。表現の自由なのか分からないけれども、その他にもめちゃくちゃ言われましたよ。

そういうのにも怒らずに説明をしたのですか。

説明もするけれども、あんまりひどい人に対しては、これは名誉毀損というより、政治活動の自由を妨害しているんじゃないか、それは法的に許されないということで内容証明を送りました。そうしたら、向こう陣営は、こんなん来たとみんなで集まり、これはまずいということで、それからはちょっと口をつぐんでくれました。

選挙演説も、それまでは説諭を聞いてくれる人にしかしゃべっていないのに大変だったんじゃないですか。

いや、弁護士とか当事者ともいっぱいしゃべってるからね。だけど、演説は下手だと言われました。僕は、一方的にしゃべるのは嫌いだから、民事でも対話型審理で行っていたぐらいでして、令和4年度研修版の「日弁連研修叢書」で「民事訴訟法における口頭主義の徹底化」という論文も書いたくらいです。

民事訴訟法における口頭主義の徹底化

それは辞めることを決める前にされた仕事ですか。

論文は、辞める前に書いています。口頭主義のことはずっとまとめていたし、実はまだこの後も書きたかったんです。この論文の中に「合議充実と口頭主義」という項目があって、口頭主義のことはもっといろいろ書きたかったけれども、選挙で忙しくて書けなかったことはちょっと心残りです。

合議充実の一環として、説明会方式を僕はかなりやっていたんです。医療過誤や建築などの難しい事件、ごみ処理場の大きな瑕疵の事件のような専門的な知識が必要な事件は、証人尋問や鑑定をすると、時間もお金もかかります。なおかつ、中身がよく分からないのです。僕はそういう事件ではとにかく最初から説明会を弁論準備でやって、建築士さんや、担当のお医者さんや隣接したお医者さん、技術者等専門家といわれる人達に直接来てもらって、説明会で全部説明してもらうことにしていました。しかも両方対席です。これは絶対いいんです。まず、お金がかからない。よく分かるし、スピーディーです。結論も妥当なものが出せます。建築紛争はほとんど判決を書かなくていいぐらいだし、医療過誤も和解が結構多かったです。

それは、建築紛争も医療過誤も和解になりやすいということですか。

やり方によりそうです。それにやり方により裁判官も心証を取りやすいのです。証人尋問は、それをしても時間がかかるし、分からない。裁判官自身がしゃべりながら理解していったほうが絶対いいので、それを是非裁判官に勧めたいんです。合議充実とか口頭主義と言っているけれども、合議事件の中で口頭主義というのは実はあまりされていません。合議事件では説明会方式でフランクに審理をして、当事者と徹底的に議論して事案を解明していくというのが一番よくて、これは単独事件よりも合議事件でやらなきゃいけないと思います。

演説

選挙運動も対話で乗り切られたのですか。

選挙は対話じゃなくて、やっぱり演説です。自分で訓練したけれども、選挙を指南してくれた友人は、「浅見さん、今日のは30点やな。駄目、帰ってもう一回練習」と言われちゃうんです。僕は80点ぐらいだと思ったんだけど。選挙直前に「桃太郎」という大行進をやったときも最後に駅前で演説したのですが、僕は自分では100点満点にうまくできたと思ったら、その後、応援演説をした妻のほうがうまくて、終わってから「市長は奥さんで、副市長があんたや」と言われてがっかりしました。

市長になって感動したこと

市長になって最も感動したことは何でしょうか。

選挙やその前の運動を通じて、世の中には良識のある人がいっぱいいるんだなと感じたことが一番感動したことです。長浜は政治的にひどいことがいっぱいあったのにそれに対して何も言わないから、何でやのと思っていました。選挙のときに、「特定の人に利益を与えるような政治はやめよう」、「市民のための公益的な仕事を政治家にさせよう」と言って、どれだけ響くかなと思ったんですが、それが結構響いたんです。僕は2万3,000票もらって、現職が1万2,000票ぐらいだったので、大体ダブルスコアで、びっくりしながら、良識のある人が結構いるんだなと思いました。市長になってからもいろいろな政治課題があり、対立しますが、良識のある人はすごくいるんです。自分は生き方として悪いことはしたくないし、正しいほうにしたいと。声も何も出さないけれども、そう思ってくれる名もない人は実は結構いることが本当に一番感動でした。これは今も毎日感動しています。

法曹が市長になる意義

裁判官または法曹が市長になることの意義についてお聞かせください。

法的正義やバランス感覚、それから、事実を見て物を判断することとか、これが合理的だという司法的な判断ができること、そんな法律家の当たり前の感覚は政治、特に地方の政治には大事だと思っています。政治ではエゴとか利益という不合理なことがまかり通りますが、一番は感情です。今、病院再編が叫ばれていて、大きい方針を示してやっていますが、僕の支援者の人を集めた勉強会で、病院はこういうことが大事で、長浜ではこういう方向でしなきゃいけないんだということを事実や証拠を示してきちんと論理的に説明したときに、長浜で長いこと政治活動をやってきた人がこんなことを言いました。「長浜の政治は誰が好きだの嫌いだのそんなことで動いてきたし、今も横行しているけれども、今日、話を聞いて、やっぱり合理的なことや正しいことをきちんと政治家が言うことが大事だということがよく分かりました」と。80歳を超えた人がそう言ってくれたので、やっぱりこれだなと思いました。これは法律家だからこそできるところがあります。法的整理だけではなく、合理的なことや、事実はこれだからそれを曲げたらあかんやろうということ、そんな法律家が持っていることを政治に投げて、当たり前のことは通そうと。その上で利害が対立したり裁量的な判断をしたり、ぶつかり合いもしょうがないけれども、それ以前の話のそもそも論で、嫌いやとか好きやという話が横行しているから、それを法律家が正すのが一番いいと思います。

それをほっておくと良識のある人が埋もれてしまうということですか。

まさにそうです。良識のある人が市政を支える時代もあったと思うけれども、そうじゃない時代が長く続いたかなと思います。その人たちは市会議員や市長には出てこずに埋もれてしまって、どちらかというと避けている。僕が去年出て市長になることによって、そういう層がいっぱいいて支持してくれるし、きちんと物を考える人はいるので、それに訴えかけることが大事で、やりがいがあるし、人は信じられるなと思いました。感情や利害に負けないで良識を前面に出せるように、それが生きるような政治をしたいと思います。それは法律家ができることだと思います。法律家は、小さな町や自分の出身地でもアメリカみたいに政治家になったほうがいいと思います。

浅見さんが入って法による支配が長浜に浸透したという感じですか。

まだまだこれからです。浸透させたいと思います。

やりがい

やりがいはどういうところにありますか。

今まで感情や利害面だけで政治をしていたのが、そうではなくて、合理的なことや正義、世の中にとって大事なことを浸透させるのが1つのやりがいです。もう1つ大事なやりがいは、今、人口減で小さくなろうとしている長浜の未来をきちんと描きつくっていくことです。13年前の平成22年(2010年)に大合併があり、そのときは人口が12万5,000人だったんですが、今は11万4,000人です。年間大体800人から1,000人が減っていくので、まちの機能を支える人が少なくなっているから税収も小さくなっていくけれども、まちの制度は力があったときの長浜のままで、今と合わなくなってきています。ですから、これをどうするのかが取り組むべき大きな課題であり、やりがいです。

病院もそうで、11万4,000人の長浜のまちに大きい病院が4つもあるんです。2つが市立病院、2つが民間で、この人口規模にしてはすごく恵まれていて、それを長浜の経済力で支えてきたけれども、人口が少なくなってまちが小さくなっていく中で病院を4つも維持できるのかが問われています。お医者さんも診療科が重なっているところには派遣できないと大学病院から言われているので、そんな状態でいいのかということが問題になっています。今、改革案を示して議論しているところです。

それから、長浜には大学が2つあり、それが定員割れして大変になっているからどうするのかという問題もあります。

そして、駅前がさびれているという批判があって、それもどうするのか。そういう課題をどう解決するのかということで、去年弁護士さんを入れて調査して報告書を作ってもらって、9月に公開しました。

また、北部地域は人口が一番減っているので、キャンピングの会社に来てもらって、何とか再生できないかということを試みています。

そういういろいろな手を使って、縮小するまちを今の時代に発展できるようにいかにして立て直すかということをやっていて、しかも縮小することは間違いないから、あまり無理して拡大というよりは、力を蓄えて、まちの力を連携させて100%以上の力が出せるようにというほうが大事かなと思います。よその力もたくさん使うことが大切ですね。東京に頼みに行くことも多いし、周りの市町とも連携したり、中でみんなが協力できるような体制づくりも大事だし、そういうことを考えると人口減社会の中で故郷のためにやることはたくさんあって、大変やりがいがあります。

市政の成果と課題

今までの市政の成果と課題についてお聞かせください。

僕は、長浜大改革を訴えました。長浜は歴史・観光都市という元々の位置づけがあるけれども、単一イシューだけで闘っていては駄目だと思いました。長浜には大学、病院を含めていろいろ立派な資源があるから、そういうのをみんな花開かせて、全部を使って地方なりにいいまちにしようということで大改革を訴えました。

一つ一つ種を植えてやっていく中で一番最初に花開いたのは政治改革です。ある市会議員さんが、行政にパワハラ的なことを言ってうちの職員も泣いていたことがあるし、行政が歪められていることもありました。僕もぼろかすに言われました。そんな議員さんが力を持っていて脅すようなこともするから、職員がその議員の家に詣でて議案の説明をしたり相談をするようなことがあったので、そんなことは一切を禁止すると通達を出しました。議員の家には行くなと。電話も携帯で出るな、全部役所の電話で出ろと。それで少しは収まりましたが、それでも当該市会議員が議場で暴言を吐いたりするから、あんまりだろうと思って、議会の録音を全部反訳して、この部分は脅しだということを全部指摘して、議会に改革をお願いしました。それは放置できないということで議会も少し動きました。個別の職員を脅した行為があったり、議案を自分勝手にさせようとした事件があったので、それも全部職員の聞き取りをして、陳述書を書かせて議会に提出して、テープも出しました。あるまじき行為だから議会として対応してくれと言ったら辞職勧告決議案を出してくれました。それが18対0で通ったのに当該市会議員は辞めなかった。その後議会がいろいろ検討して、パワハラ絶滅宣言を出してくれたけれども、それでも辞めなかった。だけど、そんなことをやっている人だから出身地のところからいろいろ火の手も上がって先日辞職されました。これは全国ネットでのニュースになりました。

今、病院再編で3つの病院を1つにしようとしているけれども、これも不合理なことをいっぱい言われて、議会にも異例の反対決議をされたのですが、9月4日に方針を表明しました。そうしたら、県知事と、長浜の病院に医師を派遣している京都大学の医学部と滋賀医科大が支持声明を出してくれました。合理的な話は進めているけれども、それでも議会に行くと通らない。どうやって説得できるかなと日々考えて、支持してくれる議員さんとか支持者の人と話していますが、成果としてはまだ中途です。でも、こういうことを通じて長浜の政治を合理的なものにしなきゃいけないし、良識ある人がみんな納得できる結論をきちんと通していくことが大事です。そういうことを通じて長浜の改革をして、かつ、人口減の中でみんなが安心して暮らせるようなまちにしないといけないと考えています。それが課題です。

ですから、大きい改革案は政治改革、2つ目は病院改革、あとは大学の改革があります。それから、駅前の改革、長浜の南の地域が発展していくための改革を今やっています。さらに、北のほうを企業と協議してやっていますが、幾つか改革をやって成果を上げていきたいと思います。

本日はお忙しいところ、ありがとうございました。

2023年(令和5年)9月23日(土)

インタビュアー:岩井 泉
中井洋恵
平野惠稔
飯島奈絵

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