弁護士会から
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弁護士
佐賀千惠美さん
SAGA, Chiemi
『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』の著者・佐賀千惠美先生は、女性で初めて司法試験に合格した三淵さんら3名につき、1985年に調査を開始し、1991年に書籍にまとめました。佐賀先生の調査・執筆が、三淵嘉子裁判官をモデルにしたNHK朝ドラ『虎に翼』(2024年4月~9月)に繋がったといえ、今回、インタビューをお願いしました。
取材・執筆
三淵裁判官らの取材は、先生が専業主婦をされていた時代に始められたのですね?
私は修習32期で東京地検の検事になりました。1年で結婚し退官して、6年間専業主婦をして2人の子どもを育て、1987年から京都弁護士会で弁護士として実働し、今に至ります。専業主婦をしていた1985年に三淵さんらの取材を始めました。
早稲田司法試験セミナーから司法試験受験生のためのコラムの執筆を頼まれたときに、雑談で「日本で女性が初めて裁判官とか弁護士になったのはいつですか?」と聞かれたのですが、私は答えられませんでした。
恐らく戦後だろう、戦前、女性は選挙権がなく、結婚した女性は夫の同意がないと法律行為もできず、相続も家督相続だったからと思って調べ始めたところ、戦前の1938年に3人の女性が初めて司法試験に合格され、1940年に初めて弁護士になったということを知り、驚きました。
もう一つ驚いたのは、この方たちについて、まとまった本がなかったことです。その前年に三淵嘉子先生が亡くなり、久米愛先生はもっと前に亡くなられ、鳥取県弁護士会の中田正子先生だけが生存しておられました。中田先生ご自身にも、久米愛先生や三淵嘉子先生のお身内にも会っておかなければ、この方たちのことが埋もれてしまうと焦り、勝手な使命感で調べ始めました。
当時、お子さんは小さかったのでは?
調べ始めたときは3歳と1歳でした。中田正子先生の取材のため鳥取に行ったときには、子どもたちの世話を家族にしてもらいましたが、一泊はできないので、朝早く出て日帰りでした。当時は関東に住んでいたので、羽田から飛行機で鳥取に日帰りしました。
三淵嘉子先生のご子息、弟さん、再婚相手の三淵乾太郎さんの長女、久米愛先生の夫と長女と次女の方、中田正子先生と次女の方にお会いしてお話を聞き、写真や資料をいただきました。今では、そのほとんどが亡くなっています。当時思い切って皆さんのお話を直接聞いておいてよかったと思います。
1985年に取材を始めましたが、出版は1991年になりました。1987年から弁護士として実働しており、子育てと弁護士業務で、取材の補充や執筆がなかなか進みませんでしたが、何とか書き切って出版しました。
「先見の明があった男性たち」
戦前に司法試験を受験された女性がおられたのは本当に凄いですね。
三淵さんは1914年生まれで、お父さんは四国の丸亀出身で、勤めていた台湾銀行のシンガポール(新嘉坡)支店時代に生まれたので嘉子と名付けられました。
嘉子さんたちは勿論頑張りましたが、当時、そのルートを敷いたり支えたりした男性たちがいたことはぜひ頭にとどめるべきだと思います。
まず、東京帝国大学の民法の教授だった穂積重遠先生が、1929年に明治大学に女子部をつくられた。当時は東京帝国大学も京都帝国大学もほとんどの大学は女子学生の入学を認めておらず、法律を学ぶ場すらなかったのです。明治大学でも「女には学問は要らん」という理事も多い中、穂積先生が日本の女性にも法律を勉強させなければと女子部をつくって下さったおかげで、嘉子さんたちは法律を学ぶことができました。
次に、嘉子さんのお父さんです。まだ女性に高等試験司法科の受験資格がなく弁護士になれるかどうかも分からなかった時に、自分の娘には法律とか経済が分かるようになってほしいと、明治大学女子部への入学を勧めました。お母さんは泣いて反対したそうです。お茶の水の女高師にそのまま上がれば一流の花嫁切符が手に入るのに、何でそれを捨てて、わけの分からない女子部に行くのだと。明治大学女子部に入学していなければ、嘉子さんの高等試験司法科への合格はないので、お父さんが勧めてくれたことは大きいですね。
もう一人は石田和外さんです。嘉子さんは弁護士になったあと結婚し、男の子を産みました。しかし、一番上の弟さんが戦死し、夫も戦病死し、お母さんも戦後すぐ病気で亡くなり、お父さんも亡くなりました。4人の頼りにする人を相次いで亡くして経済的にも精神的にもどん底のときに、裁判官になろうと考えました。後に嘉子さんは「それまでのお嬢さん芸のような甘えた気持ちから、真剣に生きるための仕事を考えたときに、私は弁護士より裁判官になりたいと思った。昭和13年に受験した司法科試験の受験者控室に掲示してあった司法官試補採用の告示に『日本帝国男子に限る。』とあったのが私には忘れられなかったのである。」*1と書いています。
嘉子さんが「裁判官にしてほしい。」と乗り込んできた時、司法省の人事課長だった石田さんは嘉子さんを追い返しませんでした。石田さんは、後に最高裁長官になったときにはタカ派と言われて批判もあった方なのですが。
当時、日本国憲法は成立したけれども未施行で、女性の裁判官は募集してない時期なんです。普通の人事課長だったら「そんなの募集してない。」と言って追い返すところ、石田さんは今の高裁長官にあたる方のところに嘉子さんを連れて行きました。そのおかげで嘉子さんはすぐには裁判官になれなかったものの、民法改正作業や家庭裁判所の設立に携わり、そこから裁判官になる道が開けていくわけです。石田さんは、憲法が変わったというのも頭にあっただろうし、今後は女性を裁判官に採用していかなければならないことも分かっていたでしょう。あと、嘉子さんの人を見たのかもしれません。嘉子さんを見て、これからの人材だと思ったのか、嘉子さんが「小さな子どもがいて弟もいて。」と必死で言うのにほだされたのか、推測の限りで理由はよく分かりませんが、追い返さずに連れて行ったということは、いろいろ考えていた人かなとは思います。ドラマの桂場等一郎は石田さんがモデルのようですね。
あと、ドラマでも戦前に桂場等一郎が無罪判決文を書いた場面がありましたね。「水中に月影を掬するが如し」、要するに実在しない犯罪を作って起訴したということを美しい言葉で書いていましたが、あれは本当に石田さんが戦前に判決書に書いていた表現らしいです。私は石田さんを詳しくは知りませんが、戦前にそういう表現で無罪判決も出しており、それなりの考えを持っていた人なのかもしれません。
※1 「追想のひと三淵嘉子」[三淵嘉子さん追想文集刊行会1985年]P.11
朝ドラ『虎に翼』について
朝ドラ『虎に翼』は先生のご著書をかなり下敷きにしていますね。
私の他に、『家庭裁判所物語』という本を書かれたNHK解説委員の清永聡さんも三淵嘉子さんを追いかけて来ました。清永さんは主に戦前から戦後にかけての司法の在り方や家庭裁判所の成立過程などを取材しておられるので、家庭裁判所で尽力した三淵嘉子さんの取材で重なっている部分はあります。私は女性法曹の草分けの足跡を残そうという思いで取材していましたので、視点は違いますが。清永さんはすごくよく調べていらっしゃいます。
調べるという意味では、先生は多数の新聞記事を引用されていますが、ああいうのはどうやって取材されたのですか。
国会図書館です。東大の女子寮にいた時の理系の友達に頼んで、コピーしてきてもらったりしました。当時はマイクロフィルムか、新聞の束だったと思います。嘉子さんたちのことが報道されたと思われる日の前後の記事を全部見てコピーを送ってもらいました。
先生の書かれたときの石田和外判事のイメージと、『虎に翼』で松山ケンイチ扮する桂場等一郎判事のイメージは合っている感じですか。
合っています。一見無愛想だけれども、実はいろいろ考えていて、嘉子さんのことも信頼できると思っている。戦後すぐ嘉子さんを追い返さなかっただけでなく、その後の嘉子さんの成長や生き方も見ていたというイメージです。
ドラマで穂高先生が退官の挨拶で「自分も岩をうがつ雨だれの一つにすぎなかった。」と言うと、寅子さんが怒り出して渡すはずの花束を渡さずに会場から出て行きました。あれは佐賀先生のイメージには合っていますか。
合っていません。ドラマですので事実と違う脚色はいろいろされていますが、他は大きくは実際のイメージとずれてはいないと思います。けれども、あそこで怒るという寅子の気持ちが詰め切れてないように思いました。ドラマでは、戦後、寅子が民事局で働き始めた後に、穂高先生は「これ以上苦しんでもらわなくていいんだ。」と言って家庭教師の職を勧めました。寅子は怒って「そんなのは要らない。」と言いました。そのときの反発が残っているから、退官のときに「先生は私たちのような雨だれをいっぱいつくっておきながら、もう辞めろとか、頑張らなくていいとか、自分は雨だれの一つにすぎないとか言って、何なんだ。」とドラマの寅子は怒ったということなのでしょう。穂高先生が頑張れと言わないことに対して怒っている、それに先生には自分の力は及ばなかったなんて後向きなことを言ってほしくないということなのだと思います。しかし、そうだとすれば、そのことをセリフでクリアに表現するべきだと、あの場面は思いました。あの表現では寅子の言動が理不尽なように見えました。
穂高先生みたいな方は今でもいらっしゃいますね。頑張ろうとしているときに、「しんどかったら休んでもいいよ。」と、それを言われ、「ん?」となるときはありますね。
嘉子さんは「職場における女性に対しては女であることに甘えるなといいたいし、また男性に対しては職場において女性を甘やかしてくれるなといいたい。」と書き、「あなたが女であるからといって特別扱いはしませんよ。」と言われた近藤完爾裁判長を「私の裁判官生活を通じて最も尊敬した裁判官であった。」と書いています。
妊娠している女性に対して気を遣ったつもりが、そんな気を遣わないでくださいという人もいれば、気を遣われなくて困ったという人もいます。状況や考え方は人それぞれなので、お互い言い合える風通しのよさがないといけない。お互い気を遣って物が言えないのが一番悪いと思いますが、いかがでしょうか。
お互い意見を言い合えるのは大事なことですね。それに、男性も過労死することがあるので、男女を問わず心身の健康には気をつけないといけないのは確かです。しかし、研究でも仕事でも、ある時期は必死でやらないと物にならないという面もあるので、そこのバランスは難しいですね。
佐賀先生のご著書によると、嘉子さんの義理の娘の那珂(なか)さんはなかなか厳しいことを言われていますね。
那珂さんから、嘉子さんについて直接お話を聞けているのは私だけだと思います。那珂さんは、嘉子さんの人柄として、独りよがりで自分の正義で憤慨することがありました、身内としては付き合いにくかったとはっきり言っていました。那珂さんが結婚して外に出た後に嘉子さんは再婚したのですが、那珂さんは、嘉子さんと同居している妹や弟のことが心配なのでいろいろ口を出したようです。
三淵嘉子さんは割と自由な方だったんですか。
いろいろ話を聞くと、独りよがりで、わがままなところもある。だけど、悪気はありません。人に意地悪してやろうとか足を引っ張ってやろうという気はないけれども、自分の正義があって、エネルギッシュだから、ばっと突っ走っちゃう。それが他の人からすると煙たいなとか、ちょっと違うなとか思う面はあったようです。三淵乾太郎さんと嘉子さんと一人息子の芳武さんとその友達の4人で麻雀していた際、嘉子さんが高い手で上がろうと思っていた時に、芳武さんが安い手で上がったら、嘉子さんは「この親不孝者」と怒鳴るんですから、気性が激しい。
負けず嫌いだから必死でやるし、感情を抑えない。でも、それぐらいの自我の強さがなかったら、あの時代は走り続けられなかったのだろうとも思います。
あと、自分に対する自信もあったと思います。嘉子さんの弟さんは戦死した方以外は三人とも東大に行きましたが、その弟さんたちが、「姉が一番優秀でした。」と言うのです。嘉子さんはかなり頭の回転も速くて、優秀だったらしいのです。
嘉子さんは自我が強くて独りよがりな面もあるけれども、苦労もしているから職場では気を遣っています。例えば香水をお土産にもらったときに、「私は香水はつけないのよ、書記官が気になるらしいの。」と言ったり、少年審判のときに少年が入ってきたら指輪の石の部分をくるっと回して見えないようにしたり、そういう気遣いは周りを見ていないとできないので、それは恐らく注目されたり足を引っ張られたりしたいろいろな経験の中から生まれたのだろうと思っています。
嘉子さんは女性のトップランナーとして、ずっと注目されていました。若いときに飲会で嘉子さんが「リンゴの唄」とか「モン・パパ」の歌とかを歌ったら、どういうふうに歌ったかまでみんな覚えていて後に思い出として書いているわけですから、一挙手一投足をずっと見られてきた人なのです。そういうプレッシャーに潰されずに、やり抜くことができたというのは、自我の強さと自信によるのだけれども、注目される立場にあるがゆえにいろいろ気を遣うようになって、職場での人間関係は良かったように私には見えます。
女性3人で初めに合格され、使命感もすごくあったのでしょうね。
それに戦後、一緒に家庭裁判所を築いてきた同志的な男性たちと価値観を共通にして頑張ってきたということもありますね。
清永さんは宇田川潤四郎さんをすごく取材しています。家庭裁判所の父と言われた方で、ドラマの多岐川幸四郎さんのモデルです。内藤頼博さんはドラマでは久藤頼安(ライアン)さんとなっていますが、この人たちが嘉子さんと信頼関係があって、「家庭に光を 少年に愛を」という家庭裁判所の標語の下に、アメリカの影響を強く受けた戦後の新しい家庭裁判所を築いた。制度は形をつくるだけでは動かないので、価値観と情熱とパワーを持った人たちが頑張らなければ駄目ですが、それをやったのがこの宇田川さんや内藤さんや嘉子さんです。
戦後間もない頃に男性がこういうことを考えて実行するということ自体、すごいですね。
宇田川潤四郎さんはドラマでは独身ですが、実際は妻と4人の子どもがいました。戦前は満州で裁判官をして、中国の幹部候補生たちに法律を教えていました。その幹部候補生たちをすごくかわいがって家に呼んで、妻の手料理やお酒を振る舞うのをしょっちゅうしていた人でした。あるときに幹部候補生の1人がマルクスの本を持っており、特別高等警察に見つかったら大変なことになるところを、宇田川潤四郎さんはお目こぼししてあげたそうです。
日本が敗戦になったときに、宇田川潤四郎さんの同僚の裁判官の1人は、中国で死刑にされ、もう一人の同僚はシベリア抑留されて12年間帰って来られなかったそうです。でも、宇田川潤四郎さんは敗戦の翌年に妻子と無事に日本に帰りました。満州での幹部候補生たちが恩義を忘れずに、いろいろ情報を流したりして助けてくれた。戦後すぐの混乱で栄養状態の悪い中で、宇田川潤四郎さんの4人の子どものうち1人は亡くなられましたが、敗戦の翌年に満州から、妻と3人の子どもたちを連れて引き揚げて来られた。
日本に帰り、上野駅に着いたら、戦争孤児たちがたむろしていた。宇田川潤四郎さんは自分がこの戦争孤児たちを何とかすると固く決意した。それは恐らく、同僚は死刑になったり抑留されたりしたけれども、自分は無事に帰れたという思いと、子どもさんを1人亡くしているので、親を亡くした子どもたちを何とかしたいという思いで、情熱を傾けました。ドラマでもコンサートの企画があり、嘉子さんの弟が所属する学生たちが子どもたちの面倒を見る組織が出てきます。実際に、宇田川潤四郎さんは、大学にアジテーションに行って学生たちでBBS*2を組織させ、京都の南座で二葉百合子や宝塚のスターだった轟夕起子を呼んで歌わせて、もうけたお金を学生に渡して、子どもたちの面倒を見させることもやったそうです。今なら、裁判官がタレントを呼んでお金もうけなんかしませんが、宇田川さんはそういう活動もパワフルにした人です。
枠にとらわれない人ですね。
自由な発想で、パワフルに子どもたちのために頑張る人です。
内藤頼博さんは、ドラマでも殿様判事と言っていますけれども、本当に信州高遠藩の16代当主で、殿様判事というあだ名でした。今でも東京都新宿区内藤町という地名がありますが、そこも内藤家の領地でした。
この方は、ドラマでは人を引き合わせるような役割を担っていますけれども、実際は何をされた方ですか。
お顔は広かったようです。ドラマではコンサートで茨田りつ子さん*3を連れてきて、ポスターにもしていましたが、女優の水谷八重子さん(初代)をモデルにした似たようなポスターを家庭裁判所がつくったようです。顔の広い内藤頼博さんが水谷八重子さんの楽屋に行って頼み込んで、ポスターのモデルにしたそうです。
私も毎日楽しみに見ていますけれども、ここは違うなとか、ここはそうだなとか、こんなふうに描くんだとか、毎日思われますか。
そうですね。脚色しているなとか、気持ちは同じだよねとか、ちょっと違うなとか。
嘉子さんは家庭裁判所に行ってから、5,000人以上の少年少女と直接向き合って話をしたということで、がんがん仕事をしています。
嘉子さんは、少年の委託先だったか少年院かを慰問するときに、駅で自腹でお肉を大量に買って持っていってあげてもいたようです。少年たちにお腹いっぱいお肉を食べさせてあげたいと。
また、嘉子さんは、少年友の会*4をほかの人たちと共同でつくりました。民間の少年の委託先や調停委員さんと組織して、バザーをやったりしてお金を集めて少年たちのために使うという活動をずっとしていました。
ドラマでは、新潟編で、すり寄ってこようとする現地の弁護士に、毅然と断るシーンがありますが、ああいう状況はあったんでしょうか。
嘉子さんは、支部には行ってないので、あれは脚色でしょうね。
ただ、ドラマで最高裁の長官にラジオ収録で反発するところがありましたが、あれは事実をもとにしています。当時の最高裁の長官が座談会で、「女性の裁判官の特質を生かした家庭裁判所がふさわしい。」と言ったら、嘉子さんは「そうじゃない、それは人による。」と即座に反発したのです。
長官もびっくりしたでしょうね。
思ったことははっきり言う人ですね。頭もいいし、根性もあるのだと思います。
ドラマでは、弁護士の轟君につき、LGBT的な展開がありました。NHKの朝ドラにようやくLGBTの要素が入ったと嬉しく思いました。
華族出身の涼子様や弁護士夫人の梅子さんも登場して、いろいろな女性の人生を描いていますね。
明治大学の女子部には弁護士夫人もいたので、ドラマの梅子さんについては、そこから膨らませていったのでしょうね。
※2 BBS:Big Brothers and Sisters Movement
※3 歌手の淡谷のり子さんをモデルにした登場人物
※4 全国50家裁に対応し50の少年友の会があり、2024年現在では全国で1万人余りの会員が活動している。調停委員や元調停委員、家裁の元職員、弁護士が中心となっている他、少年と年齢の近い学生会員が所属している会もある。
ご経歴
ここから先生のお話を聞きたいのですが。
1952年7月生まれで、72歳になります。私が弁護士を目指したのは父のおかげです。父は、熊本市内の小さな町の薬剤師で薬局経営をしていました。もともとは伝統的な価値観を持っている父で、昔で言う本家の長男でした。父は当時剣道五段で、後に七段もいただき、私と妹には長刀を、弟には剣道をさせていました。父は「男子厨房に入らず」とか、男は人生のうちで3回しか泣くもんじゃないというようなことも言っていました。
当時の熊本県の中学校では、模擬テストの県内の成績の何十番かまでを名前と中学校を書いて生徒に配っていました。私がそれに載っていることを知った父の囲碁友達が「おまえのところの娘は勉強ばかりしていたら嫁に行けないぞ。」と父に言いました。すると、父が怒って、私に「これからは女性も活躍する時代だ。おまえは東大に行って弁護士になれ。」「金の心配はするな。」と言ったのです。それが中学2年のときです。私はまだ子どもでしたからお金のことまで頭にはなかったのですが、金の心配はするなと言われて、お父さんは本気なんだと思いました。
伝統的な価値観の父がなぜそう言ったのかなと今考えると、恐らく二人の女性の影響があったと思います。1人目は、当時、熊本県で初めて女性で弁護士をしていた方が、ラジオで交通事故の法律相談をしていました。父は薬剤師で薬局を経営しているから、ラジオを聞いていて「あれはすごい、きちんと仕事をしている。」と感心していました。それと、父は本家の長男ですが、分家のいとこで年下の女性が熊本大学の医学部に戦後女性で初めて入学したことも影響していると思います。
私は修習46期ですが、私達の世代でも、九州の女性には、親に「九大まではいいけれども、それより遠方はダメ。」と言われた方がいますね。
女性で東大の文一に合格したのは私が熊本県で初めてでした。母校の熊本高校から、男子学生は毎年、理系も文系も合わせて現役で15~16人、浪人も合わせると20人程、東大に入っていました。
当時、東大法学部の女子はどれくらいいたのですか。
私は1971年入学です。法学部の女子学生は、1968年入学が2人か3人、1969年は東大紛争で入試がなく、1970年入学は3人程。私たちの1971年入学がたしか30数人で圧倒的に増えたと言われました。法学部は1学年550人ぐらいでした。何かきっかけがあったということではなく、戦後、女子学生も勉強するようになってきたということかと思います。
修習32期で女性検察官はどれぐらいいたのですか。
私も入れて5人ほどで、それでも、前の年より多かったと思います。女性の検察官の先輩はごくわずかしかいませんでした。
検察官のどんなところにひかれましたか。
私は東京修習で、当時はロッキード事件につき東京地検特捜部が起訴して公判が始まっていて、東京地検は活気がありました。検察官が当時の国鉄や外務省の中国領事館とかに出向したり、訟務検事として国が被告になる民事訴訟や行政訴訟等を担当していて、仕事の幅も広いとも思いました。また、当時、女性が地下鉄に夜1人で乗ったら海外では危ない国もあるけれども、日本は安全なので、その安全を保つ一翼を担いたいという思いもあり、検事の仕事もいいのではないかと考えました。
面白かったですか。
1年で結婚して辞めたので、検事の仕事の本当の奧は分かってないと思いますが、いろいろな経験ができてよかったと思います。
東京地検で捜査を半年、公判を半年やったのですが、捜査のときに選挙違反事件があり、私ども新任検事も手伝いました。限られた日にちで事件の目途をつけないといけないので、男性検事は泊まり込みです。女性の私は上司から、「泊まらずに自宅に帰っていいけれど、最終電車で帰って始発で出てこい。」と言われました。配慮してもらったとは思っていますが、そういう男社会でした。
結婚して、お子さんができて、しばらく主婦をされたのですね。
主婦は、今考えたらいい経験だったし、その時期だったからこそ戦前の3人の女性たちの本を書く気になったということもあります。
当時は「子どもが3歳になるまでは母親が手元に置いて育てたほうが、子どもの気持ちが安定する」という考えが一般的で、私も子どもが3歳まではと思い、検事を辞めました。資格があるから弁護士ならいつでもなれるという気もありました。
主婦は、最初の2~3年は夢中でやれました。子育ても新鮮だし子どももかわいい。離乳食は手作りし、梅干しもぬか漬けも自分で漬けました。ところが、3年目ぐらいから、同じことを繰り返していると「これでいいのかな。」という気になります。そういう頃に、戦前に頑張った3人の女性たちのことを知ったので、それで余計「残しておかなければ。」という気持ちになりました。
1987年4月から京都弁護士会で弁護士の実働に入られたのですね。お子さんはどうされたのですか。
私の両親が薬局をやめて熊本から京都に来て同居してくれたので、何とかやれました。
京都の武道センターには日本でも一流の剣道の先生がおられて、父はそこに週に2回ほど修行に行けたので、父は京都に来てよかったと言ってくれました。
私は、1994年に地労委の公益委員になり、1996年に京都弁護士会の副会長、2001年に京都府労働委員会の会長になりました。全国で初めての女性の会長でした。2004年に「女性の活躍推進協議会」*5の京都の座長を、2015年から二部上場の社外監査役を4年間務め、去年、旭日双光章をいただきました。
※5 少子高齢化の下、多様な人材が活躍できる環境を整備すべく厚生労働省と経団連、商工会議所等が官民連携の下、2001年に設立した協議会
印象に残る事件
特に印象に残っている事件を教えてください。
マスコミで報道された事件のみお話しします。まず、教会の牧師が信者の少女多数に性的加害をしていた事件がありました。この刑事事件に関わり、民事訴訟で勝訴しました。宗教的マインドコントロールにより抵抗できなかったことのほか、加害も教会の中だったことから外形理論を主張したところ、裁判所が宗教法人の賠償責任を認めてくれました。
画期的ですね。
刑事事件で検察官は、暴行脅迫はなかったものの、マインドコントロールで逆らえなかったことを捉え、準強姦罪の当時の量刑の上限を検察官が求刑したんですが、その求刑どおりの実刑判決でした。裁判所ってすごいなと思いました。
京都呉服屋セクハラ判決というのは?
1997年に、セクハラ事案では日本で初めて債務不履行構成で、会社には職場環境を調える義務があると認めた判決です。
元警察署長さんの件というのは?
警察で保護した人が亡くなってしまい、その報告の公文書に虚偽記載をしたとして署長が起訴されました。一審は無罪をもらいましたが、控訴審でひっくり返りました。責任を取らせる形で署長だけが起訴され、争点は、担当者の虚偽記載を署長が分かって行わせたかでした。今でも私は、署長は知らなかったという一審の無罪判決が正しいと思っています。
中学のいじめの件とは?
市立中学校の男子生徒が被害者の件で、いじめた子とその親と市を相手に訴訟をしました。市の教員も見て見ぬ振りをしていてひどかったのに、いじめた子にだけしか勝てませんでした。大津市におけるいじめの件より前の判決でした。
過当回転売買は?
大手証券会社に被害者の会社が株式等の一任的な過当回転売買で多額の損をさせられ、かなり手数料も取られていた案件で、当時としては最高の賠償額の認容判決でした。
後輩たちへ、弁護士会へ
後輩弁護士に対しての御助言をいただけるとありがたいなと思うんですけれども。
私は依頼が来た案件を一つ一つ真面目にやってきたという感じです。しかし、今の方たちはどうやって案件を受任するかということも考えないといけないだろうから、大変だと思います。けれども、弁護士の人数が増えて、外に目を向けざるを得なかったり、新たな活躍の分野に進出せざるを得なかったりするために、それが弁護士の仕事の領域を広げたり、社会を変えたりできることもあるのだろうと、プラスの方向に進んで行くべきときかなとも思います。
弁護士会に向けての御意見もお願いします。
京都で以前に女性の社外取締役や社外監査役の候補者名簿を作ってはどうかとの話をしたときに、なぜ女性だけやるんだという御意見があり、そのときは結局名簿は作れませんでした。日弁連の統計を見ると、女性弁護士の平均収入のほうがかなり低い。また、世界経済フォーラムの2024年ジェンダーギャップ指数も、日本は146ヵ国中、118位です。まだまだ、てこ入れしないといけないところがあるのですが、なまじ弁護士は平等だと思われているので、実質的な平等に向けての対応の必要性についての理解が少ないかなと感じることがあります。
長いお時間ありがとうございました。
2024年(令和6年)7月23日(火)インタビュアー:飯島奈絵
折田 啓