弁護士会から
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アナウンサー
下村彩里さん
SHIMOMURA, Sairi
報道ステーションのフィールドリポーターを務めておられる、テレビ朝日アナウンサーの下村彩里さんにインタビュー。報道に懸ける真摯な姿勢と謙虚なお人柄がそのまま伝わるお話です。報道ステーションの現場取材の裏側も教えていただきました。
下村さんにとっての関西・大阪
下村さんは、関西・大阪にもよく取材に来られていますが、関西・大阪は下村さんにとってどのような場所ですか。
私の父が大阪出身で、私の祖母は今も京都に住んでいまして、家族にとってすごくゆかりのある場所です。ただ、私は東京生まれ、東京育ちで、どちらかというと、この業界に入ってからよく行くようになりました。父は関西弁を使いますので、取材に行った時に関西弁を聞くと父のことを思い出したり、私自身関西のノリはなぜかとても落ち着くんです。
バレエ留学
高校卒業後にカナダとイタリアにバレエ留学されたそうですね。
はい。当時18歳で、バレエ学校に入学するには最後の年だったんです。それまでも海外で勉強したいという気持ちはあったのですが、やっぱり飛び出すのが怖くて。でも、これは最後のチャンスだと両親も背中を押してくれて、思い切って入学オーディションを受けました。最初は1年の予定でしたが、最終的には2年半の留学になりました。
留学生活で大変だったことや、得られたことはありますか。
カナダのホームステイ先のホストマザーが英語の先生だったんです。バレエで朝から晩まで一日中踊り、くたくたになって帰れば、今度はホストマザーの英語の“授業”が始まるんです。「彩里、今日はどんな日だった?何が印象的だった?どんなことを感じた?」など質問攻めです(笑)。事前に英会話の勉強をあまりすることなく、海外に行ったこともあり、最初は言葉がほとんど出てこなかったのですが、この短期間のスパルタ授業が効いて、喋ること、聴くことに関しては、そこで一気に抵抗がなくなりました。それからは、どこにでも行けるんじゃないか!というくらい、海外生活への怖さもなくなりました。それでサマースクールと呼ばれる夏期講習に参加するために、アメリカのボストンバレエ学校に行ったり、カナダのウィニペグやビクトリアなどにも行ったりと飛び回り…最後に行ったのがイタリアです。
イタリアは1年でしたが、今度はイタリア語の壁がありまして、想像以上に英語は通じませんでした。上下左右のアップ・ダウン・ライト・レフトすら通じなくて、教室で1人棒立ちでした。バレエを学ぶどころじゃなくて、とにかく生き延びるためにどうしたらいいんだろうというところからのスタートだったんです。
ただ幸いにも、バレエは言葉ではなく身体の表現なので、言葉が話せなくても、バレエを頑張れば先生も評価してくれましたし、私が言葉を覚えると、先生や仲間もすごく嬉しそうで、バレエも語学の勉強も頑張ることができました。
アナウンサーを目指したきっかけ
バレエ留学から帰国して大学を卒業された後、アナウンサーになられました。アナウンサーを目指したきっかけは何だったのですか。
きっかけは色々とあります。そもそも私は、バレエという言葉以外の身体全身を使った表現を極めてきたこともあり、“言葉”に対しては苦手意識がありました。
そのような中、バレエ留学の後に怪我をして、バレエ以外の人生を模索し始めていた時に、1つの挑戦として、ミスインターナショナルという大会に出ました。その活動の中で、2016年の熊本地震の復興支援の一環で世界のミスたちと一緒に熊本に行くことになりました。
その時に人生で初めて、活動の一部始終をカメラマンに撮影してもらうという体験をしたわけですが、その際カメラの前で突然「下村さん、熊本の被災の状況を見てどう感じられましたか?」と問われた時、私は一言も言葉が出なかったんです。こんなに感じていることがあるし、伝えたいこともあるのに言語化できない。すごくもどかしかったし、今すぐに話せるようになりたいと強く思いました。
東京に帰った私はすぐに話し方教室を調べて、いくつかの講座に参加しました。その中でも、フジテレビのアナウンサーの佐々木恭子さんの講座への参加は人生のターニングポイントになりました。最初はとにかく話し方が上手くなりたい、という思いで参加したんですが、話を聞いているうちに、私は佐々木さんの人柄、“生き方”に魅了されていきました。
どんなところに魅了されたのですか。
佐々木さんがかばんから取り出されたノートには、無数のカラフルな付箋が貼られていました。私が、「これは何ですか。」と聞いたら、「これ、私のやりたいことリスト。」とおっしゃったんです。本当に綺麗に自分のやりたいことがジャンルごとに色分けされていて、付箋は多分100枚以上貼られていました。佐々木さん曰く、「私はすごく好奇心があって、こんなにやりたいことがたくさんある。こういうところに行ってみたい、そして実際に行ってみた。アナウンサーという職業は、そこでの出会い、そこで気が付いたこと、全てが仕事に生かされる。」ということだったんですね。そのノートを見たときに、直感で「私もやってみたい」と。やりたいことリストを全部書いて、一個一個達成していったら新しい世界が見えてくるかもしれないと思ったんです。
実際にやってみると、自分の中にあった潜在的な“好奇心”や“探求心”が芽生えてきて、何気ない日常が豊かになっていく、ワクワクする感覚がありました。自分自身が人生の中で最も大切にしたい気持ちや感覚に気が付くことができましたし、私もこういう女性になりたい、こういう生き方をしたい!そしてその好奇心が仕事に生かせるなら何て幸せなことなんだろうなと思いました。
入社後すぐ、報道ステーションのキャスターに就任されて
2019年4月にテレビ朝日に入社されてすぐ「報道ステーション」の気象キャスターに就任されました。改めて、そのときのご心境はいかがでしたか。
正直に話しますと、気象情報を担当すると聞いた時は、私に務まるかなと、不安の方が勝りました。なぜなら幼少期からバレエ漬けの毎日だったこともあり、何かと室内での活動が多く、天気にはあまり左右されてこなかった。気象情報に対する意識が低かったんです。
ただ、よく考えてみれば気象情報は、“全国民”に関わる大切な情報。特に気象災害が年々増えていって、そういった中で気象情報を伝えるということがこんなに責任のある仕事なんだということ、その重みをすごく感じましたね。テレビの向こう側で、もしかしたら私の言葉で避難をしてくれる人がいるかもしれないと思うと、例えば、水害の前日に予報を伝えるということはすごく責任があるように感じて。それを思えば思うほどうまく言葉が出なくなってしまうという経験もしました。そこにすごくもどかしさを感じ毎日これでもか、というぐらい練習をして本番に臨んでいました。
番組では、文字になった原稿をそのとおりに読むという感じなのですか。それとも、自分なりの言い方にアレンジされることもありますか。
最初は、ディレクターが書いた原稿を一言一句覚えるようにしていましたが、それだと結局自分の言葉になっていないので、文言を忘れてしまいやすかったり、一度間違えると頭が真っ白になって言葉が詰まってしまうこともありました。途中からは、ディレクターだけではなくて、自分でも原稿を書くようにして自分の言葉を身に着ける訓練をしました。そのうち、意味が同じであれば、自由に言葉をアレンジもさせてもらえるようになりました。「ここは下村の言葉にしよう。」というふうに私の案を採用してもらえるようになることがどんどん多くなってくると、やはりうれしいですし、同じ内容を伝える上でも、自分の言葉に置きかえることができるようになると、より心を込めて伝えることができるような気がします。
取材をした人々の代弁者になる
テレビの向こうの誰をイメージしながら話すかという点については、どのような意識をお持ちなのですか。
画面の向こう側に誰がいるのかというところでいうと、特定の誰かではなくて、結構漠然としているかもしれないです。奥に何万人の人が見ているということを考え出すと緊張してしまうので、そこはあえて自分自身で漠然とさせているかもしれないです。この情報を伝えることでちょっとでも役に立ったり、救われる人がいるかもしれない。もちろん、それは叶わないことかもしれないですが、見ている人の心をどうやったら動かせるかなということを考えています。
現場で伝えている時は、基本的に、私が取材した相手の方の話を代弁することもあるので、取材をした時の相手の表情や仕草を、そのまま頭にもう一度思い浮かべながら話すようにしています。その感覚というのは、実はバレエ時代とすごく似ていて、役になり切るとか、誰かの気持ちを踊りに乗せるというところに重なるんです。
我々弁護士も、依頼者の思いを拾って、それを法律家の目で引き直しながら裁判官に伝えていくといった作業をやっていますので、取材した相手の方の話を代弁するというお話には共感を覚えます。
現場に行ける幸せ。現場に行くための第一ミッションはとにかく飛行機に乗り込むこと
下村さんは2021年4月以降、「報道ステーション」のフィールドリポーターとして、全国各地を動き回っておられますが、どのようなスケジュールで1日を過ごされているのですか。
今日はこういったインタビューの時間をいただいて、久しぶりに決まった時間に仕事が始まるので、心の準備ができました(笑)。
時間が決まっていないというのは、例えば、朝起きる前に電話がかかってくることもあります。「今から北海道に行ける?」とか「九州に行ける?」という連絡があって、概要をさくっと聞いて、飛行機にとにかく乗り込むことが私のまず第一ミッションです。何のニュースだかよく分からなくても、とにかくまずは飛行機に乗って、飛行機の中でひたすら情報をインプットしています。
現場に行くことは、私にとってすごく幸せなんです。これまで、コロナ禍で現場に出ることを制限されていた期間が3年弱あって、私がフィールドリポーターに就任した2021年4月からすぐそういう期間でした。会いたくても会えない、会えたとしても、マスク越しで2メートル以上離れて、という時期がずっと続いていたので、今、その人にすぐに会いに行けるという有り難みをすごく感じています。マスクをして距離を取って密にならないように、となると、相手の感情を読み取ることもそうですし、相手の言葉を聞き取ることすら難しいんです。
そういう状況でのインタビューと、実際にお会いして、マスク無しで、その人と何気ない話をしながら始まるインタビューというのは全然違うんですよね。
今は本当に移動できる有り難み、会える有り難みを日々感じています。
さて、下村さんは、おとといの6月10日、最高裁で旧統一教会の念書の有効性に関する裁判の取材に行かれていましたが、いかがでしたか。
実は、裁判所での取材の仕事はなかなか縁がなくて、ちょうど今日のインタビューの直前に最高裁の取材に行けたことに運命を感じましたが、何と傍聴券まで当たって最高裁の中に入ることができたんです。
せっかくの機会だし、とにかくいろんなものを目に焼きつけようと思いましたが、着席すると頭を動かすことすらも目立ってしまう、足を動かすのも憚られるくらい、想像以上に静粛な雰囲気でした。こんなとてつもない緊張感の中で、弁論する弁護士の方々をみて、知識だけでなく精神的な強さも必要なお仕事なのだなと、改めて感じました。また、印象的だったのは、法廷では冷静に淡々としゃべられていた弁護士の方々が、その後の記者会見の場では、すごく感情を持ってお話をされていたことです。
法廷というのは、一つの舞台で、その陰にはいろんな思いがあります。記者会見というのも社会にPRするための一つの舞台となることがあります。同じ裁判でも、最高裁の法廷というのは一般の法廷とは雰囲気が違うと思います。一般の法廷もいろいろで、例えば、刑事事件の裁判員裁判では、一般の裁判員の方によく理解してもらえるような工夫が必要となります。
なるほど。もう全部見てみたいです。場に応じて切り替えられているのですね。伝えたい思いをちゃんと持たれて、依頼者の思いに寄り添ったり、依頼者の奥深いところまで入らないと、弁論などの法廷での活動はできないと思ったので、そういう意味では、私も同じように人の痛みに寄り添ったり、人の悲しい気持ち、うれしい気持ちに寄り添いたいなと思いました。仕事は全然違うと思いますが、そういうところは同じなのかもしれないです。勉強になりました。
当たり前が当たり前でなかったコロナ禍。一番影響を受けた子どもたちへの思い
さて、先ほどコロナ禍の話が出ました。行きたいところに行けず、本当にしんどい時代だったと思います。現場を取材される中で、コロナ禍の時期は下村さんにとってどんな時間でしたか。
人との接触や移動の自粛が呼びかけられていたため、現場に行くこと自体が色々なリスクにつながってしまう。どんどんリモートワークも増えていきましたし、現場リポーターなのに、現場に行けないというもどかしさは日々感じていました。
今も忘れられないのは、緊急事態宣言が何回も発出され、渋谷のスクランブル交差点に誰も人がいなくなったところに行って、言葉を紡がなければならなかったこと。今思えばある意味、歴史的な瞬間を取材できたんだと思いますが、当時はそのリポートがとても悲しかった。当たり前が当たり前じゃなかったんだな、日常というものがいかに尊いものかということをすごく感じました。
コロナ禍の時期で印象に残っている取材やエピソードはありますか。
学校の取材に行ったのがすごく印象的でした。小学校1年生のクラスの取材で、お昼の時間だったんですが、子どもたちが全員壁に向かって机を並べて、壁に向かって食事をしていました。つまり、当時は、飛沫が飛ばないように、「黙食」が呼び掛けられていたんです。自分の小学生時代を思い出すと、お昼の時間は友達と話をしてわいわいしていたのに、そこには静まり返って、もちろん笑顔もない、真っすぐと壁を見て食事をする子どもたちがいました。
その後、何回か学校の取材がありましたが、コロナの感染が落ち着いてきた後も子どもたちはずっとマスクをつけていて、「どうして外さないの?」と聞くと、入学した当時からマスクをつけていて、友達に顔を見せるのが恥ずかしいと。
子どもたちにとっては、大人以上にコロナの期間というのは影響が大きかったのだろうなと思いました。その時間をどうやったら取り返してあげることができるんだろうと、非常に胸が痛みましたね。
大人はつらいことがあっても隠したりしますが、子どもたちは、つらいことやもどかしさは隠さないじゃないですか。子どもたちの行動や表情が世情を表しているようでした。
コロナ禍での取材以外で、下村さんにとって、印象的だった取材は何でしょうか。
1つのテーマを長期間、継続して密着取材をしたことがあります。
そのテーマは、特異な才能を持ちながらも生きづらさを抱えている子どもたちを取材するというものでした。その取材の中で、あるフリースクールで、1人の高校生に出会ったんです。
彼は絵を描くのがすごく上手でした。本当にプロのようで、鉛筆で描く絵がすごく上手く、一目見れば、すごいエネルギーと才能を持っている子であることが分かるんですが、人とコミュニケーションを取ることがなかなか難しかったり、集団で授業を受けることに対して抵抗感があって学校に通えない。最初、私と会った時も一言も会話はできず、カメラを向けることにも大きなハードルがあり、どうやったらこの子と打ち解けられるんだろうというところから始まりました。
でも、私はとにかくそのフリースクールに通い続けました。取材を通して彼に何回も会いに行くことによって、彼の成長というのが目に見えて感じられて、本当に感動的で喜ばしかったです。
彼の何が成長したのかというと、最初は、鉛筆で、例えばコップやぬいぐるみを1人で黙々と描いていたんですが、先生の寄り添った指導によって、徐々に友達と2人で授業を受けられるようになったんです。そしたら、その友達の手や顔を描くようになったんです。さらにそれまでは、全部モノクロだったのが、色がつくようになって、その色もだんだんカラフルになってきて、彼の心が徐々に開いていくのを目の当たりにしました。私とも最初は目が合うことはなく、私がいることで集中できなくなってしまうこともあったんですが、徐々に落ち着いて絵を描いてくれるようになったり、目を合わせてお辞儀をしてくれるようになったり、距離がちょっとずつ縮まっていったんです。そういう喜びを味わわせてもらったのは本当にかけがえのない時間でした。
日々目まぐるしく動くニュースに追われることも多いですが、継続取材で得た“繋がり”はこれからも大事にしたいと思います。
発災当初から取材し続けた能登。「忘れないでね。」という被災者の言葉
他方で、心が痛んだような取材はありますか。
最近だと能登半島地震の取材です。現場に行ってすごく感じるのは、東京から見えていることと、能登の現状は全然違うということです。能登に行けば行くほど、実際に行ってみないと分からないことがこんなにたくさんあるんだと思います。
例えば、先日、公費解体の件で取材に行ったのですが、東京から見ていた私は、公費解体をすることが能登の人にとって一歩前進だ、解体をしないと危険だ、だから解体することが正義だと、そればかり思い込んで現場に行ったんですが、そんなに単純なことではなかったんです。私は思い込みがあったので、「公費解体が進めば一歩前進ですね。」と聞いてしまったのですが、「一歩前進なのかな……。」という答えが返ってきました。もちろん前に進みたいという気持ちはあるけれども、慣れ親しんできたご近所や自分の家が更地になることはすごく怖いし、心から望むことはできないとおっしゃったんです。その気持ちはやっぱり能登の人にしか分からないし、それは、現場に行ってみないと分からないことだったなと痛感しました。そう思い込んでいた自分や、そんな質問をしてしまったこと自体が申し訳なかったなという気持ちにもなりました。
実際、能登の現状については、どのように捉えていらっしゃいますか。
能登に行って一番心に残っているのは、いろんな方から「忘れないでね。」と言われたことです。それは発災直後の医療従事者の方のインタビューにも出てきた言葉でした。
ただ、最近能登に行った時には「忘れないでくれてありがとう。」とこちらが感謝の言葉を言われてしまうぐらい、メディアの数は激減しましたし、ボランティアの数もまちまちになりました。
私は発災当初から能登の現場に行かせていただいているので、そういう言葉をもらった以上、とにかく今も能登に住んでいる人たちのことを忘れないでいよう、というのは強く心がけていることです。
政治家への取材時の心構え
下村さんは、政治家への取材をされているご様子もよく拝見します。どのような準備をされて、取材に臨まれているのですか。
政治の分野に関しては、私が今担当している「報道ステーション」に、政治部で長年記者をしていたディレクターがたくさんいます。ディレクターと、今日はどういうところを掘り下げて聞いていきたいかについて、打ち合わせをしてから取材に行きます。
ただ、あらかじめディレクターが提案してくれた質問案の中には、専門的な政治用語や、難しいな、分からないなと思う事柄もあります。そういうときは、簡単な言葉に置き換えることはもちろん、等身大の私が率直に感じた素朴な疑問や、視聴者の人たちが政治家に聞きたいこと、訴えたいことは何かを考えて、そういった視点の質問は必ず盛り込むようにしています。
囲み取材では、政治の専門的な質問というのは大体最初に出るんですよ。皆さん詳しいことをいろいろお話しされた後でも、意外と素朴な質問はまだ出ていなかったりするので、それが政治畑にいない私がお話を聞かせていただく意味だと思って心がけています。
あと、街録インタビューをした後に政治の取材に行くとすごく面白いんです。
街録インタビューは幅広い年代に話が聞けるだけでなく、学生、会社員、自営業、専業主婦、年金生活者、と様々な立場の中で、いろんな思いをもった人のリアルな声を聴くことができます。このリアルな生の声を交ぜながら、質問をすると非常に説得力が増すんですね。皆さんの声が、政治家の心を動かし、言葉を引き出す、何よりも強い武器になっているなと感じていて、なるべく事前に街録インタビューに行きたいですと私はよく言っています。
政治家への取材は、ある種予定調和的に、あえて政治家がアドバルーンを上げやすいような雰囲気に持っていくのか、あるいは、政治家の気が緩んだところをうまく突っ込んで、政治家の本音の部分をうまいこと引き出すのか、何か手法はあるのですか(笑)。
そんな手法は全然ないです(笑)。ですが、質問する時の1問目は大事で、1問目で何を聞くかでその場の空気が変わるんです。「ご苦労も多かったんじゃないですか。」という、寄り添った感じの質問で心を開いてくれる方もいれば、それが逆効果なこともあります。
あとは、会見では最初に話を聞きたいので、最初に手を挙げることはいつも心がけています。政治家の生の声をトップバッターで聞きたいというのは、私の意地でもありますね。
つらいニュースは、無理に見なくていい
いろいろなニュースがありますが、つらいニュースも多いと思います。視聴者はつらいニュースに対してどのように向き合っていけば良いでしょうか。
私の母も毎日「報道ステーション」を見てくれていますが、いくら私が出ているからといっても、見たくないニュースは見ないらしいです。どうしても心が付いていけない日もあるし、自分の心が疲れているのに、ニュースを見ることでもっとつらくなってしまうかもしれない。
ですから、私は、無理をして全てのニュースを受け止めてほしいとは思っていません。ただ、私はニュースを伝える上では、いくら遠くで起きた事件でも、いくら遠い国で起きた戦争のことであっても、いつ自分の身に降り注いでくるか分からないので、そのニュースを見ている人に少しでも身近に感じてもらいたいとは強く思っています。
例えばウクライナの戦争の話であっても、どうやったらこの遠い国の話を視聴者の人に身近に感じてもらえるのだろうということをすごく模索した時期もありました。
そんな中SNSで目に留まったのが17歳のウクライナのバレリーナのカテリーナさん。カテリーナさんはウクライナの国立バレエ学校で、最年少でプロのバレエダンサーになるという実力者ですが、平穏な日常に突然、戦争が降りかかってきた。彼女は踊り続けるために、母国を離れ、1人オランダに移住。SNSを通じてではありますが、17歳という若さで、戦禍を越えて踊り続ける姿に胸を打たれ目が離せなくなりました。
そんな彼女が初めての海外公演で日本に来るということを聞いたので、私はすぐに動き始めました。17歳の少女が見た戦争を、言葉でなくてもいい、バレエ=踊りを通じて視聴者に訴えてほしいと強く思いました。
同じ想いのディレクターやスタッフとチーム一丸となって企画をし、その結果、「報道ステーション」のスタジオで彼女は自らが振り付けた作品を踊ってくれました。テーマは彼女が見た戦争。題名は、「Hope for Tomorrow(明日への希望)」。
若くて才能に溢れたカテリーナさんは、ウクライナの未来も担っているわけですが、そんな彼女の希望や純粋さに溢れた真っすぐな踊りが、MCの大越さんや徳永さん、そしてきっと視聴者の方にも伝わったなと思った瞬間は、これがテレビで働くやりがいであり、意義だなと感じました。
現場で感じた問題意識はSNSも利用して伝える
現場の事実をまず伝えないといけない中で、その事実の背景や、問題点や課題を解決するためにはどうすればいいのかといった問題提起もされるのですか。
問題提起までは私の裁量ではできないことも多いです。私は現場でリポーターをやっているので、現場での発見や、現場に行かないと分からなかったことが日々たくさんあるので、それをありのまま伝えます。問題提起をするというところまでになると、まずいろんな背景を整理して、様々な世の中の意見も念頭に置く必要があります。その上で、弁護士の方たちがたくさん勉強されている法律も絡んでくることも多いので、問題提起については、大越さんや、スタジオにいる方々にバトンを渡すという気持ちでやっています。
ただ、自分自身が問題意識を持っていないと取材ができないこともたくさんあると思うので、あくまでも“冷静さ”を忘れないようにしながら、本当にこのままでいいのかとか、こんなことがあっていいのかとか、喜怒哀楽を常に持ちながらやっています。
自分で感じた問題意識はSNSで発信をしています。話を聞いて終わりではなく、その話から何が分かったのか、何を感じたのか、しっかりニュースを自分の中に落とし込むという意味でも取材後に文章化する習慣を心がけるようにしています。
また、ある日は政治取材、次の日は暑さや雨取材で、かと思いきや翌日は裁判所で取材、などなど、毎日いろんなニュースに携わるので、自分が感じたことや生の声を忘れないようにする意味でもとても役立っています。
SNSでの発信で工夫されている点はありますか。
最近番組の放送内容は、地上波の放送後、一部がインターネット上にもアップされるようになったので、そのURLを取材後記と共に、インスタグラムのストーリーズ*1にあげるようにしています。こういった形で発信をすると、フォロワーの方から、ニュースを見た感想など、コメントが多く寄せられるんです。幅広い年齢層の方の視点や考えを聞くことができ、とても勉強になっています。もちろん、インスタグラムは様々な方が見てくださっているものだと思うので、ニュースだけでなく、私自身の何気ない休日の話、家族の話を載せることもありますね。
※1 インスタグラムの機能のうち、24時間限定で、任意の画像や動画等を投稿する機能のこと。下村さんのインスタグラム▶
「報道ステーション」とは
「報道ステーション」という番組は、下村さんにとって、どんな番組でしょうか。
様々なプロフェッショナルが集まっている番組だと思います。政治、経済、国際、事件や事故などに関して、それぞれにすごく詳しいディレクター、デスクの人たちがいます。
経済のことだったらこの人に聞けばいいとか、政治の問題だったらこの人に頼ってみようということができて、すごく心強いです。
「報道ステーション」のメンバーは、家族みたいな安心感はありつつも、なれ合いもあまりなく、皆がすごくプロ意識を持っています。お互いにライバルであるとともに、尊敬し合っていますね。
弁護士について
最後に、弁護士に対するイメージを教えていただけますか。
法律を使って人を助けるお仕事というイメージがあります。最高裁の取材の時もそうですし、今日のお話でも、法律を巧みに使うだけではなく、人の思いや痛みに寄り添う仕事なんだなということを強く感じました。正直、今までは、淡々と冷静に、感情も捨てて、法律に基づいてお仕事をされるというイメージがありました。ですから、今日すごく印象が変わりました。冷静沈着で、更に言葉を選ばずに言うと、ある意味冷たい印象だったのが、覆されました。
私が取材の世界で出会う弁護士の方は、殺人事件の被告人の弁護人など、すごく遠い世界にいるイメージが強かったのですが、よく考えてみたら、すごく身近で、誰もがお世話になる町医者のような弁護士の方がたくさんいます。取材をする中で思い返してみれば、能登で、倒壊した家屋を直すにしても、解体工事をするにしても、何にも法律が関わって、それに基づいてみんな救済されたり、逆に法律があるがためになかなか前に進まない問題もあったり、全てのニュースに法律が関わっているなということを改めて感じました。ですので、自分の本当に近いところに法律や弁護士の方の存在があるのだなと思います。
そんな弁護士に対して何かメッセージを頂戴できますか。
法律はある程度、不変性が求められるもので、だからこそ法律を変えるというのは、議論を経て多くの人の理解を得るなど、とても労力の要ることだと思います。
一方で、さまざまな現場を取材していると、世の中が今すごいスピードで変化していて、法律もアップデートが求められるケースが増えてきているように思うのです。
私たちはその法律が今の世の中を生きる人にとってどんな意味を持つのかを、伝えていく責任があると感じます。
だからこそまずは、そもそも法律が何のために存在するのかなど、基本や背景を知ることは欠かせません。
是非多くの人にそういった部分の理解を深めてもらうためにも、皆さまのお力を貸していただけたら、有り難いです。
本日は、素敵なお話をありがとうございました。
2024年(令和6年)6月12日(水)インタビュアー:阿部秀一郎
岩井 泉
尾崎 雅俊
豊島 健司
山口友視香