弁護士会から

広報誌

オピニオンスライス 12月号

映画監督、作家

森 達也さん

MORI, Tatsuya

2023年に公開された映画『福田村事件』の監督である森達也さんにインタビュー。 オウム真理教信者たちを撮影したドキュメンタリー映画『A』に始まり、テレビ業界ではタブーとされる事実に切り込む作品を数多く手掛ける森達也さんが、ヘイトクライムや死刑、再審制度などについて、独自の視点から熱く語ってくれました。

映画『福田村事件』

映画『福田村事件』は、関東大震災のときに朝鮮人の大虐殺があって、市民がその虐殺に加担していく中で、日本人が殺されたという事件を描いています。

昨年9月1日に公開で、公開直後の週末に行きましたが、立ち見が出てすごい状態でした。制作されている間や宣伝活動のときに、この映画は反響がありそうだなという感じはありましたか。

撮る前は、内容的には間違いなく反日映画と言われるだろうし、俳優たちも出演は尻込みするかもしれないし、劇場に街宣車も来るかもしれないけれど、でもとにかく撮るしかないとの思いでした。

でもその後に、声をかけた多くの俳優たちが出演に応じてくれて、東出昌大さんは自分から電話してきましたね。どんな役でもいいから森達也の劇映画に出演したいって言ってくれた。

さらに、公開数カ月前からメディアの取材がとても増えてきて。2016年に発表した「FAKE」は、話題になった佐村河内守さんのドキュメンタリー映画ということでそこそこ取材があったけど、『福田村事件』はその数倍の規模でした。もちろん人気俳優がいるから増えるかもしれないとは思っていたけれども、予想をはるかに超えて多かったです。

それはなぜでしょう。

推測ですが、小池都知事が虐殺された朝鮮人への追悼文を送らないことがニュースになったり、当時の松野官房長官が記者会見で、政府内には朝鮮人虐殺を明示した公式の記録は見つからないなどと言ったことで、そこまで否定するのかと思った記者やディレクターは少なくなかったんじゃないかな。

メディアは公正中立や客観性を建て前にしているから、自分の思いをストレートに表出することは難しい。でも森にインタビューすれば、この強烈な違和感を代わりに語るはずだと思った人がいっぱいいたような気がします。NHKの「クローズアップ現代」も含めて、多くのテレビや新聞から毎日のように取材を受けました。

公開日の9月1日に蓋を開けたら、予想を上回る状況でした。だから、これはメディアだけじゃなくて一般の人の中にも、そこまで歴史を歪曲することはおかしいと思っている人はいっぱいいて、そういう人たちが来てくれたんだなと納得しました。

バッシングが来るだろうとか、その辺は何か対策を考えられましたか。

保守や右翼からの攻撃はほぼなかったです。拍子抜けするくらい。

でもこれまで上映中止運動が起きた映画の系譜を見れば、その理由はわかります。旧いものも挙げれば、『ナヌムの家』ピョン・ヨンジュ監督、『靖国 YASUKUNI』リ・イン監督、『ザ・コーヴ』ルイ・シホヨス監督、『狼をさがして』キム・ミレ監督、『不屈の男 アンブロークン』アンジェリーナ・ジョリー監督、『主戦場』ミキ・デザキ監督となります。抗議を恐れて日本公開が頓挫しかけた『オッペンハイマー』クリストファー・ノーラン監督もこのリストに入れることは可能だけど、監督が日本人ではないことが反日映画の条件なんです。歪なナショナリズムが刺激されるのでしょうね。

そもそもこの事件をテーマに映画を作ろうと思われたのはなぜですか。

二十数年前にテレビでこの事件のことを知りました。当時は何とかテレビでできないかなと思ったんだけれども、結局テレビはどこも駄目。その後、映画にしたいと思ったけれども、大手の映画会社からも断られました。

聾唖の方が発話できない、そういうことで殺されたりした日本人もいた、というのを読んだことがあります。

検見川事件とか何件かありますよ。甘粕事件は有名だけど、社会主義者たちが大量に殺害された亀戸事件は映画にも登場します。

虐殺に至る契機

朝鮮人虐殺は、デマを流すのに公権力が関わったという点と、それを安易に信じた人がたくさんいたという2つの側面があると思うんです。安易に信じ込んでしまった元をただしていくと、何が一番大きな影響を与えていたと思われますか。

不安と恐怖だと思います。そもそも当時、内務省のナンバー1とナンバー2、水野錬太郎と赤池濃は、三・一独立運動のときに朝鮮総督府にいました。差別や迫害に激しく抵抗する朝鮮人を見ているからこそ、未曽有の災害が起きたとき、不安と恐怖がさらに高揚したのでは、と思います。一般の国民も同様で、朝鮮人を二等国民などと呼称して差別しながら、内心は怖れてもいた。

ふだんからの差別と偏見が社会の雰囲気を醸成していくんでしょうか。

そう思います。

映画制作の中で苦労されたことはありますか。

脚本づくりの段階で、日本人虐殺が前面に来ているけれど描きたいのは朝鮮人虐殺なので、そのレトリックの捩れをどうすれば回収できるだろうとずっと考えていました。さんざん悩んだ末に、「朝鮮人なら殺してええんか」という台詞に辿り着いた。

日本人の差別意識については、どう考えておられますか。

近年のヨーロッパでは、右傾的な政党が大きな支持を集めていますが、彼らに共通する主張は移民排斥です。特に近年はISなどのテロが相次いで、不安と恐怖が強くなっているから集団化が起きやすくなっている。

集団のメカニズムは同質でまとまることです。だからこそ違う民族、髪や目の色、宗教や言語の差異は異物のフラッグを立てやすい。なぜなら彼らは少数派です。不安や恐怖が高まれば多数派に属したくなる。多数派になるためには少数派を見つけたくなるわけで、それが差別の一つの根幹なのかなという気がずっとしています。人は群れる生きものです。つまり集団化は人間の本能ともいえる。その意味では普遍的な現象です。東アジアは集団化しやすいような気がするけれど、日本人も欧米人も本質は変わらない。だからこそ教育やメディアの影響は重要です。

それと、過ちの歴史から目をそむけないこと。でも最近の日本は、自分たちの過ちや加害の歴史を直視することを自虐史観などと言って忌避する傾向がとても強くなっている。朝鮮人虐殺はまさしくその典型ですね。

最近は、ネットが問題になったりしていますね。

安田浩一さんが書いているけれど、ヘイトスピーチをする人は一人一人会ったらとても普通の人たちです。僕もかつてサリン事件直後のオウム施設に入ったとき、信者たちの多くが善良で優しいことに驚きました。でも考えたら当たり前。邪悪で凶暴だから邪悪で凶暴なことをするわけじゃない。やはりキーワードは集団、組織、徒党じゃないかと思います。

ウトロの放火事件など、いわゆるローンウルフ的なものが増えてきたと言うけれども、彼らはネットでつながっているという感覚を持っているんです。

そうすると、自分らは支持されているんだという意識があるということですね。

ネットはアルゴリズムですから、そういう意味では、クルド迷惑、在日帰れみたいなワードばかり検索していたら、同じ傾向の情報ばかりが増えてきて、多くの人は自分と同じ考えだと思うのでしょうね。エコーチェンバーです。さらに、自分の好みではない情報はフィルターバブルで遮断される。ネットやSNSの弊害は絶対ありますね。つまりSNSや投稿動画などソーシャルメディアを媒介にした集団化。これは今の選挙にも大きな影響を与えています。

関東大震災の頃は情報が行かないからすごい疑心暗鬼になるだけではなくて、乗せられていく人は、正義感とか使命感とかがあったようにも思えます。

過剰な自衛意識です。自分の家族、自分の同胞たちを守る、それが正義や大義につながる。なぜ人類はいまだに戦争と手を切れないのか。この命題に対して、人には闘争本能があるから、と説明する人は多いけど、僕は逆だと思います。むしろ自衛本能です。だからこそ不安や恐怖が高まったとき、集団化を起こして敵を見つけて攻撃したくなる。過剰防衛ですね。ほとんどの戦争はこうして起きます。ナチスはポーランド侵攻の大義を東方への生存圏と説明しました。大日本帝国の大義はアジアの解放。アメリカのイラク侵攻の大義は自由と民主主義を守るため。あとは自国民保護の名目。これは今のイスラエルやロシアにも当てはまる。

政治家たちは「日本を守る」「国民を守る」などと連呼します。でも何から守るのか。守るためには敵が必要です。だから敵を作ってしまう。こうして戦争が起きる。虐殺もメカニズムは同じです。

特に公権力が流すと乗りますね。

単純に声が大きいし、増幅作用もある。御墨付きだみたいな感じになるのかもしれないですね。

当時、デマを流したのが公権力の側であった、権力というのはそういうことをするんだ、ということが今は知れ渡っているはずなのに、権力が流す情報に対して批判的になりにくいのはなぜなんでしょうか。

知れ渡っているかなあ。決して集合知にはなっていないと思いますよ。

集団は全体で同じ動きをしたくなるから、強い政治リーダーを求めたくなる。だから世界では今、かつてなら独裁者と呼ばれたはずの政治家が、大きな支持を集めている。ネットと融合したメディアが、市場原理に埋没して不安や恐怖を喚起し、その帰結として集団化が起こり、強い政治リーダーを人々が求め始める。

メディアの問題

デマを流した公権力は処罰されないですね。

もちろん公権力も裁かれるべきだけれども、僕はメディアの責任をもっと追及しなければいけなかったと思います。長期間の権力は絶対暴走して腐敗するんです。それを監視するのがウオッチドッグたるメディアです。でも、それが全然果たせてない。国際NGO「国境なき記者団」が発表した2024年度の「報道の自由度ランキング」で、日本の評価は180か国中70位(前年68位)です。日本の一つ上の69位はアフリカのコンゴ共和国で、一つ下の71位はやはりアフリカのコモロ連合。

ランキング発表と同時に「国境なき記者団」は、日本のメディア状況について、「伝統の重みや経済的利益、政治的圧力、男女の不平等が、反権力としてのジャーナリストの役割を頻繁に妨げている」と補足しています。「反権力としてのジャーナリストの役割」の原文は、「their role as watchdogs」。つまりウオッチドッグとしての機能を果たしていないと断言されている。

それはなぜなんでしょうか。

記者クラブも一つの要因だと思うけれども、記者クラブだけに集約されるわけじゃなく、横並び体質であったり、情報を上からもらうとか、そうした体質が日本のメインストリームメディアに染みついているからです。

実例を挙げます。今回の選挙で自民党が大きく議席を減らした要因である裏金問題と旧統一教会の問題、ここに最近の大きなニュースとしてジャニーズ事務所の性加害問題を入れて、この3つには共通項があります。全部メインストリームメディアにとっては外圧で始まっている。裏金問題はしんぶん赤旗と神戸学院大学の上脇教授の告発、旧統一教会問題は安倍首相暗殺の実行犯による供述、そしてジャニーズ問題は週刊文春とイギリスのBBCが制作したドキュメンタリー。自民党は日本の権力中枢の象徴だしジャニーズ事務所は芸能界におけるヒエラルキーのトップです。つまりテレビや新聞など日本のメインストリームメディアは、権力に対するウオッチドッグの機能を果たしていない。

海外のメディアとの違いを感じられることはありますか。

2019年に発表した『i-新聞記者ドキュメント-』が東京国際映画祭で上映されたとき、新華社通信の記者からインタビューを受けました。終わってレコーダーのスイッチを切ってから、映画を見て日本の記者たちは自分の国とほぼ同じと感じたと彼は言いました。「でも僕らの場合は、上に共産党という一党支配の巨大な権力構造が存在している。だから自由に物は言えないし書けないし表現もできない。日本にはそんな権力構造はないのに、記者たちは自発的に委縮しているように見えます」と言われて絶句しました。

日本社会が固まってしまっている感じですね。

政権交代がもっともっと頻繁に起きるべきだと思います。自由民主党の結党は1955年だけど、日本自由党と、その自由党からいったんは離脱した日本民主党の合同だから、自民党の遺伝子は戦後ずっと変わっていないと言えます。ちなみに岸信介は日本民主党でした。80年間ほぼ一党独裁。こんな民主国家はあり得ない。ならば権力が腐敗して暴走するのは当たり前です。

あと、今、日本は選挙報道がとにかく駄目なんです。公正中立をいまだに錦の御旗にしている。都知事選のときに中立にやりましたかと言われても、誰も答えられないと思う。とっくに破綻しているけれども、それを口にできない。

できないのはなぜですか。

公職選挙法や放送法は言い訳です。むしろ国民から偏向しているとたたかれることが怖いんでしょうね。あとは何十年も続いた自民党の圧力。その帰結として、日本のメディアは公正中立を自分たちのレゾンデートルにしてしまった。

アメリカでは、ワシントンポストもニューヨークタイムズもフォックスも、支持政党や候補者を明言したうえで報道します。多くの映画俳優、監督、作家、シンガーが、私は今回ハリスを応援しますとか、俺はトランプだとか、普通に言うじゃないですか。日本で考えたら、松任谷由実が私は今回自民党を応援します、役所広司が俺は今回立民に入れるぞとか、そんなことはあり得ないですよね。でも、アメリカではそれを普通にやっている。

それをやると干されるみたいですね。

日本では干されます。だから、政治に関して物を言ってはいけないみたいな風土が出来上がってしまっていて、これも日本の政治を貧困にしている理由の一つだなと。

でも、自民党支持だったら流れるんですよね。

それは一番差し障りがないから。多数派だから。隣近所も多分自民党と書いているんだろうなと思って、自民党と書くんです。

テレビ業界には、上場したら駄目になるという笑い話があって、確かに駄目になるんです。駄目になるというのは、魅力がなくなって人気が落ちるということだけれども、フジテレビもテレビ東京もそうだけれども、株式会社として成熟すればするほど、コンプライアンスやガバナンスやリスクヘッジのプライオリティが上がって、メディアとしてはダメになる。特にジャーナリズム的な側面ですね。

日本社会の変化

森さんは、大学で教えておられますが、今の学生さんはどんな感じですか。

数年前まで明治大学で教えていました。ゼミの授業で雑談中に、そういえば君たちは来年4年生で就活で忙しくなるけれども、この3年間に海外に何人ぐらい行ってるのと聞いたら、25人中2人しかいなかった。びっくりしました。その2人も家族旅行です。グアムに行ったとか。なぜ海外に行かないのか、一人旅に憧れないのか、と訊いたら、危ないし、不潔だし、お金かかるし、何で行かなきゃいけないんですかと反論されました。明らかに好奇心が減衰していますね。

森さんご自身は、ピースボートに乗られたことがあるんですね。どんな感じですか。

乗る前は左翼偏向かと思っていたけれど、まったくそんなことはない。乗客たちは当たり前だけど日本社会の縮図で、自民党支持者もいれば、原発推進の人もいます。でも船は逃げ場がないし時間もたっぷりある、森達也ってよく分からないけど、こいつの映画が船内のホールで上映されてるから見に行こうとなる。その後に船内の居酒屋に行って、みんなで飲む。感想を言い合う。右も左も一緒。それが楽しくて。しかもピースボートの現地ツアーは、通常の観光コースに加えて、スラムや難民キャンプ訪問などもあって、とても有意義な体験ができます。

ピースボートが始まった1980年代頃から考えると、いろんなことが変わってしまったと感じます。

僕はオウムが契機だったと思います。

サリン事件は95年ですね。

日本社会は不安と恐怖を激しく刺激されて、セキュリティ意識が高揚した。さらに世界レベルでも、その6年後にアメリカ同時多発テロが起きた。その後にアメリカがイラクに報復して――イラクは何もしてないから報復じゃないですね。フセイン政権は崩壊させられてISが生まれて、ISが世界に散らばってテロを始めて、世界中でセキュリティー意識を根底にした集団化が始まった。日本は先取りで95年から始まっている。

オウム真理教をめぐってはいろいろと本も書いておられるし、取材されて映像作品も作っておられますね。その中で死刑についても発信しておられますね。

2003年ぐらいにオウムの岡崎一明さんから会いたいと言われて拘置所に会いに行って、面会室で会った瞬間に、何を話せばいいか分からなくなってしまった。

この人は殺される人なんだと気づいたんです。人はみんな死ぬけれども、殺されることが決まっている人の存在とは何なのかが分からなくなってしまって、それから死刑制度について調べ始めました。それまでは曖昧だったけれど、今は死刑制度は廃止するべきと明確に思います。でも内閣府のアンケートでは、死刑を支持する・しないのパーセンテージは、もう何年もほぼ変わっていない。8割が死刑賛成です。

でも、袴田事件の再審無罪を契機に、今の再審制度は不備すぎると多くの人が気づき始めた。この延長に死刑制度の是非をめぐる議論もあるはずです。

ただ、袴田さんのえん罪ばかりが突出してしまって、この事件は例外なんだと多くの人が思うのが怖い。飯塚事件とか和歌山カレー事件とか、えん罪の可能性がある裁判は他にもたくさんあります。でも昨日、別件でも再審が認められたというニュース(2024年10月23日、1986年3月に福井市で起きた中学生殺人事件で有罪判決を受けた男性が名古屋高裁金沢支部から再審開始決定を受けた件)を聞いて、ちょっと変わってきているぞと思いました。

公権力は過ちを犯さないんだという無謬性は、日本には天皇制があるからだと思うんですけれども。

うーん。一つの要因ではあるのかな。昭和天皇を免罪しちゃいましたから。

『千代田区一番一号のラビリンス』は、前半すごくリアルで面白かったんですが、後半がラビリンスになっていく。

世界で唯一、公式に人権を制限されている存在は囚人と天皇です。まずはそこに着眼した。そして現上皇夫妻の言動にも。明らかに国民にメッセージを送っていると思ったんです。

国づくり神話で、イザナミが死んで黄泉の国に行ってしまって、イザナギは恋しくて助けに行ったのに、穢れたイザナミを見て逃げ帰ったという話がずっとひっかかっていて、穢れぐらいなんだ、助けろよとずっと思っていたので、国づくり神話の逆バージョンをエンディングにしました。

被害と加害

世界で起こった虐殺について、共通の記憶として記憶遺産とする、という動きもあるようです。

被害と加害のケースを記憶することは前提として、人間は環境によってどちらにもなりうるということにもっと気づくべきだと思います。ナチスドイツの親衛隊や大日本帝国の皇軍兵士はみんな残虐な男たちなのか。ウクライナのブチャで虐殺に加担したロシア兵だってガザ地区で住民を殺戮しているイスラエルの兵士も、家に帰れば良き夫で良き息子であるはずです。普通の人が組織に帰属することであり得ないことをしてしまう。つまり凡庸な悪ですね。

大衆の心理状態とか、人間の心理を深掘りしていく研究などもありますね。

ニルス・クリスティがノルウェーでなぜ刑罰寛容化を主張し始めたかというと、学生の頃に、第二次大戦時にノルウェーにあったナチの収容所で虐待した刑務官と虐待しなかった刑務官の違いを調べたら、収容者と会話している刑務官は虐待してなかったと教えてくれました。

日常生活の中での接点ということですよね。だからこそ、ルワンダやユーゴスラビアなどの内戦が怖いですね。ふだんから接点があったはずなのに。

安田浩一は地下茎という言い方をしていたけれども、それが日本社会の地下にあって、何かの拍子で顔を出してくる。にこにこ笑っている人が、急に差別意識をあらわにしたりする。

日本社会では、自分たちで監視し合っていくというか、むしろ横が押さえつけてくる。上からの弾圧よりも横からの攻撃のほうがシビアという感じがするんです。

同調圧力ですね。それはあります。

横と同じでなければいけないという圧力はどこから始まるんでしょう。

さっきも言ったように集団化は人間の本能だけど、東アジア、特に日本はそれが強い。一つの要因としては教育かな。個よりも全体を重要視する。言葉にすれば滅私奉公。戦争時には国家や天皇への奉仕で、戦後は会社など自分が帰属する組織への奉仕。その意識は今も根強いですね。あとは在日コリアンの歴史とか、もっと教えてもいいと思う。

ニューヨークとかロンドンとかパリとかバンクーバーとか、要するに欧米の都市のほとんどのように、街を歩けば黒人もアラブ系もヒスパニックも東洋系も普通に歩いたり食べたり挨拶したりするコミュニティーになれば、ずいぶん変わるのではとは思います。

女性の描き方

映画の中で、自警団に対して「いつまで戦争ごっこをやってるんだ」と言ったのが女性ですよね。このセリフはすごく秀逸だと思ったんです。わっと沸騰するところに水を差すみたいな。
映画の中では、虐殺を止めようとするのも女性だし、記者は事実を書かなければ、と言うのも女性記者です。異議申立てをする役どころが女性になっています。

そもそも封建制は男の文化じゃないですか。集団の論理みたいな部分で、女性はちょっと違う役割を果たすんじゃないかなという気はしています。

戦争の文脈は、それこそロシアとウクライナも最初の頃は女性がみんな抵抗していたように、当時だって女性が結構ブレーキになっていたはずだよなと。何かで一色になってしまうんでしょうけれども、少なくとも虐殺の場においては、それほど積極的じゃなかったはずだし。でも、女性で加わった人もいますけれどもね。

社会の変化

今の社会の流れを押しとどめていく何かが必要だと思うんですけれども。

昔は僕の本を一人でも多く読んでくれれば、映画を見てくれればとジョーク交じりに言っていたけれど。……やっぱり今一番のショートカットは政権交代じゃないかな。それで少しは変わるかもしれない。

でも、自社さ連立政権のときも、民主党になったときも、震災があったんですよね。

自民党が下野すると、なぜかこの国は天変地異が起きるんです。何でしょうね。自民党の呪いじゃないかと時おり本気で思いたくなる。

ただ、社会の雰囲気をつくるものの一つに文化があるんじゃないかと思うんです。

去年、あの映画がヒットしたからこそ、都知事が追悼文を出さないことへの抗議の声などが報道されたんじゃないでしょうか。

現在の動員は15万人を超えたのかな。インディーズとしては大ヒットです。でも大手の映画は何十万人以上の動員が当たり前です。だから大ヒットと言われると複雑な思いがあります。

でも、『福田村事件』は、社会の雰囲気を押し返す、その力になったんじゃないかと思うんです。

きっかけにはなったかもしれないですね。大手の会社の人たちも、あのとき森が来ても全然相手にしなかったけど、この手の映画でもこんなに客が来るのかと改めて思ったかもしれないし、もしかしたら今後こういう映画が増えてくれるかもしれないですね。

なので、是非とも、今後も文化的な力を発揮してほしいです。楽しみにしています。

はい。

ありがとうございました。

2024年(令和6年)10月24日(木)

インタビュアー:大橋さゆり
康  由美
金  英哲
安原 邦博

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